松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
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今月の法話

2022年12月の法話

[12月の法語]

いただきますと合掌するのは 感動の表現である

Saying "I gratefully receive this meal" with hands together in gasshō
is an expression of having been moved by the gift of life.

米沢英雄

[法話]

 因幡(いなば)の源左(げんざ)(※)として知られる妙好人(みょうこうにん=信仰心のあつい念仏の行者を称賛していう語)足利源左さんのお手継(てつ)ぎ(=浄土真宗で、檀家からその所属する寺をいう語)、鳥取県青谷の願正寺さまには、3年に1度ほどご縁を頂きます。2021年の春彼岸が、最近のご縁でした。 源左さんの言葉は、若いころから何度も味わい、紹介もしてきました。それでも法語の味わいというのは、繰り返してもその都度(つど)、新しい発見があります。この時は願正寺さまに額装(がくそう=書画を額に納めたもの)して掛けてあった言葉、「めしよりうまいもんが、あるかいや」について、お話しさせていただきました。

 炊き込みご飯はおいしいものです。季節、季節。栗ご飯や松茸(まつたけ)ご飯、筍(たけのこ)ご飯など。その時期に採れる恵みをご飯でいただくほど、おいしいものはありません。私も大好きです。でも、毎日同じ炊き込みご飯は無理です。よくたとえでお話しするのですが、どれほど高級な料亭、それこそ何万円もするような割烹(かっぽう)の料理でも、2日続けては嫌です。それはなぜでしょう。

 家でのご飯。そこでは食べたい量、とろろ昆布やお漬け物、梅干し、なんでも自分の好みに合わせられます。多かったら減らせます。すべてが自分専用なのです。 外でいただく場合はそうはいきません。量、味、好み、多少なりとも向こうに合わせなければなりません。普段味わえないような美味であっても、そこには、幾分かの無理が生じているのです。

 「めしよりうまいもんが、あるかいや」
ご飯ほどおいしいものはない。これはいうまでもなく、白いご飯に違いありません。
私も子どものころ、母の実家で、ご飯と味噌汁、お漬け物だけの朝ご飯を、何日も続けていただきました。毎日変わりません。茄子のお漬け物のおいしかったこと。そして、毎日食べても絶対に飽きのこない食べ物、それが白いご飯であったのです。
「めしよりうまいもんが、あるかいや」
むろんこの言葉はたとえです。

 私を育ててあってくださるご飯。自分専用。飽きることがない。向こうに合わせる必要がない(向こうが、私に合わせてくださってあるからです)。源左さんはお念仏の味わいを、全く異なる「めし」によって、このように表現されたのです。異なるもので別の味わいを表す、このような比喩(ひゆ=ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ)を暗喩(あんゆ=「...のようだ」「...のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。隠喩。メタファー)といいます。

 毎日毎日、自分専用のお念仏を申して手を合わす日々。充実した人生であったといえるでしょう。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

(※)因幡の源左(いなばのげんざ、1842年(天保13年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月20日)浄土真宗の教えを日常に体現した妙好人の一人とされ、鳥取県(因幡国)青谷町(現在は鳥取市に編入)に在住した農民である。幼名は源左衛門、明治の苗字許可令以降は足利源左(本籍名は足利喜三郎)と名乗った。

◎コロナ渦から3年近くになり今年も暮れようとしています。現在は増加傾向にありますが行動制限もほとんどなくなりコロナ前の日常が戻りつつあります。ただ大阪府では先月、新型コロナ警戒信号が2ヶ月ぶりに黄色になりました。基本的な感染防止対策は今しばらく必要かと思います。この一年はロシアのウクライナ軍事侵攻や安倍元首相の銃撃事件等々暗いニュースが続きました。来年はよい年になりますよう願うとともに、どんな時でも阿弥陀さまのお慈悲の光の中で生かされていることに感謝しお念仏とともに一日一日を大切に過ごしたいと思います。
一年間何かとお世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌

2022年11月の法話

[11月の法語]

たとえ一人になろうとも 仏はあなたと共にある

Even if you find yourself alone in this world, Amida is with you.

雪山隆弘

[法話]

 今回、本願寺派の布教使、雪山隆弘氏のことばとしてこの一句を教えていただきました。雪山氏の亡くなられた翌年(平成三年)に発行されたエッセイ集、『ブッド・バイ―みほとけのおそばに―』(百華苑)の最終回、さらには最後の段落で語られたことばです。闘病生活のなか、半年にわたって『産経新聞』に連載されたエッセイは、「みほとけのおそばに」と頷(うなず)いた教えを通して、雪山氏が感得(かんとく=奥深い道徳や真理などを感じ悟ること)されたことばで溢(あふ)れていました。なかでも印象的だったのは、共に同じ教えを聞く者として、奥様やお父様との出遇(あ)いを本当に喜んでおられる姿でした。病気が進行するなか、自身の死を意識しつつ語られることばは、「独りぼっち」からは程遠いものだと感じました。

 以前、参加した研修会で、ある先生が「〈一人でいられる〉のと、〈一人でしかいられない〉のは違うんや」と、つぶやくようにおっしゃったことばが忘れられません。数十人が集(つど)い、泊まり込みで行われる研修会では、集団生活の煩(わずら)わしさを感じたり、話し合いになれば意見が合わなかったりすることもあります。そんななかで、他人と一緒にいることは疲れる、と感じていた〈一人でしかいられない〉私には、先生から続けて投げかけられた言葉がさらに響きました。「本当に一人でいられる人は、他人とも一緒にいられるんじゃないだろうか」。

 周(まわ)りといることが煩わしくなれば「一人になりたい」と思い、独りぼっちが寂しくなれば「みんなといたい」と思ってみたりと、私は〈一人でしかいられない〉と〈みんなでしかいられない〉の間をウロウロしているのです。自分の都合で他者を利用しながら、「一人」でも「みんな」でもいられずに、「本当に一人でいられる」ということがはっきりしない私がそこにいるのでしょう。

 「たとえ誰からも見放されたとしても、仏さんだけは一緒にいてくださる」ということだけならば、それは慰(なぐさ)めであり、自己満足の世界に閉じこもっていくようなことに終わるのではないでしょうか。誰もが、誰にも代わることのできない尊い「一人」を生きている。そのことを知らせんとするはたらきこそが仏でしょう。人と比べ、威張(いば)ったり、卑屈(ひくつ)になったりする必要のない「一人」の私がここにいる。そして、その事実への頷(うなず)きは、隣におられる他者と共に生きる世界への開けでもあります。仏がそばにましますということを、独りぼっちの慰めにするのではなく、その教えを通し、共に大悲(だいひ=阿弥陀如来の大きな慈悲)される者として、他者と出遇っていかれた雪山氏の姿が思われます。

 一人になれるということが、実は周りとの関係を開いてくる。「たとえ一人になろうとも、仏はあなたと共にある」とのことばは、「独りぼっち」に終わるような終点ではなく、他者とのつながりをいただく起点なのだと思います。

松林 至(まつばやし いたる)

1982年生まれ。教学研究所嘱託研究員。岡崎教区西岸寺住職。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]
雪山隆弘(ゆきやま たかひろ)
昭和15年(1940)生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年(1990)門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

◎先月初旬は30℃あった最高気温が20℃くらいになりすっかり秋らしくなりました。朝方はぐっと冷え込んで各地で紅葉が進んでいるようです。年々季節の移り変わりの早さに身体がついて行かないことを思い知らされます。皆様方もご自愛くださいますようお念じ申し上げます。

合掌

2022年10月の法話

[10月の法語]

悲しみあるがゆえによろこびあり 煩悩(ぼんのう)あるがゆえに菩提(ぼだい)あり

Because we feel sorrow, we can feel delight. Because we have defilements, we can attain the wisdom of the true awakening.

伊東慧明

[法話]

罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる
こほり(氷)とみづ(水)のごとくにて
こほりおほき(氷多き)にみづおほし(水多し)
さはりおほき(障り多き)に徳おほし(多し)
(『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)

 とても難しい和讃ですから、ゆっくり、言葉を補(おぎな)いながら味わってみましょう。

 「罪障」というのは、文字通り、この私の罪と障(さわ)りです。功徳とあるのは、如来さまのはたらき、その功徳をいいます。この功徳は、浄土に往生してからの功徳ではないことに、気をつけなければなりません。今、この私の上ではたらいてある功徳をいいます。「体」というのは、『広辞苑』では「物事がはたらく際、もとになる存在や組織」と定義されています。そうするとこの一首の意味は、

「この私の罪や障りこそ、如来さまのはたらきのよりどころであり、大本(おおもと)なのです。ちょうどそれは氷と水のような関係で、氷が大きいとそれが溶けてできる水も、量が多くなります。私の障りが大きければ大きいほど、如来さまの功徳も、それをつつみこむように、より大きくはたらいてくださるのです」

というほどの意味になります。この和讃のたとえが絶妙で、氷と水の本質は変わりません。もし本質が異なれば、氷は絶対に水になることはできません。ここにそっと、仏教の原理が説かれています。

 出処(しゅっしょ=出所、出どころ)は知らないのですが、こんな話を読んだことがあります。
江戸時代の大谷派の学僧、香月院深勵(こうがついんじんれい 1749~1817)師が、安居(あんご=僧が、夏、1か所にこもって修行すること)で京にこられたことがありました。久しぶりにお会いできると、お泊まりの所へお同行(どうぎょう=心を同じくしてともに仏道を修める人々。真宗ではその信者をいう)が訪ねて行かれます。

「和上(わじょう=高僧の尊称)さま、お久しぶりでございます。この度は、ご苦労様でございます」
「おお、久しぶりじゃ。よう来てくれた。ところで、手土産は何かな」
思いがけない言葉。和上も歳を召(め)されたのかと、
「取り急いで参りました。手土産はまた明日にでも」
「なに。手土産もないのか」
「明日、持参いたします。何がよろしゅうございましょう」
「...そうじゃな。お前さんの罪と障りを持ってきてくれるか」

阿吽(あうん)の呼吸(=二人以上で一緒に物事を行うときの、互いの微妙な気持ち。また、それが一致すること)で、お同行には和上の心がわかりました。
「仰(おお)せではありますが、罪と障りは、とうの昔に如来さまにお預けしてあります」 「おおーっ。如来さまに先を越されたか。それでは、お前さんの煩悩を、重箱(じゅうばこ)に詰(つ)めてきてくれんか」
「和上さま。仰せでもそれは無理でございます。煩悩こそ、私のよろこびの種でございますから」

 ここに念仏者の人生、すべてが言い尽くされてあります。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

◎後半は禅問答のようでしたね。阿弥陀如来の本願力(すべての衆生をすくい取ってやまないという誓い)によって凡夫が煩悩をもちながらも往生できるという浄土真宗の特徴がここにあるように思いました。

合掌

2022年9月の法話

[9月の法語]

手を合わせ 仏さまを拝むとき わたしのツノを知らされる

I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.

波北彰真(はぎたしょうしん)

[法話]

 昔話に登場する鬼にはツノがある。傍若無人(ぼうじゃくぶじん=人のことなどまるで気にかけず、自分勝手に振る舞うこと。また、そのさま)のふるまいで村人を困らせ、やがては改心するというのが大抵の筋立てだ。鬼のツノは見えるけれど、人間の場合はどうだろう。

 いつもは穏やかな人でも、怒るとツノが生える。囲炉裏(いろり)の灰の中に埋めてある熾(おき=まきなどが燃えて炭火のようになったもの)のように火種(ひだね)は消えずに、いつでも燃えるようにスタンバイしている。私の中にある見えない熾がツノとなってメラメラと燃え上がる。だから「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう=煩悩の火が燃え上がるように勢いの盛んなこと)」というのだと教えていただいたことがある。

 「見えない」ことで思い出す本に『ひかりごけ』がある。三十年以上前に読んだ本だが折(おり)に触れては思い出す。難破(なんぱ)した船から命からがら無人島にたどり着いた船員たち。わずかな食料も底をつき、死んだ同僚の肉を食うか食わないかという選択肢に迫られる。最終的に生き延びたのは船長ただ一人。その事実が明るみになり裁判が行われる。裁判長や傍聴(ぼうちょう=会議・討論・公判などを、許可を受けて、そのかたわらで静かに聞くこと)する人たちは船長を責める。船長は自らの罪を認め言う。「人肉を食べた人の首にはひかりの輪ができるという言い伝えがあります。私の首をしっかり見てください」と。しかし、船長の首にはひかりの輪はなく、その他の人たち全員の首にひかりの輪があったというお話だ。

 私がこの本を通して考えさせられたのは人が人を「裁(さば)く」ということだった。裁判長ではあるまいし、私は今まで人を裁いたことはないと思っていたが、よくよく考えてみると自分にとって都合の「いい人」「悪い人」というように他人を裁いてきた苦い経験が知らされてくる。意見の合う人とは仲良くし、合わない人は遠ざける。自分の正しさを疑わずよしあしを区別することを仏教では分別という。それは排除や差別となって周りの人を切り捨てていく。人だけではない。たとえば食事を手作りするのは、勉強ができるのは「いいこと」だという考えは、そうしない(できない)のは「悪いこと」とされてしまう。「我執(がしゅう=自分中心の考えにとらわれて、それから離れられないこと)」という名のツノがニョキニョキと頭皮を突き破って生えてくる。しかも、そのツノは自分には見えない。

 そんな私たちに阿弥陀さまは、「我が身のツノに気づけよ」と呼びかけている。私たちがその願いにふれるのは阿弥陀さまの名前を呼ぶナムアミダブツの声となった時。でも気づいたからといって、ツノが無くなるわけではない。「ツノがあることを自覚できた」というツノがまた生えてくる。ツノまでも自慢の種にする私たちのずるさを「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう=よこしまな考えを持ち、おごりたかぶるもの)」と親鸞聖人は「正信偈(しょうしんげ)」に書いてくださっている。「ただ念仏せよ」というシンプルな教えを素直に受け止められないのは、自分でも気づかない程の底知れぬ闇(やみ)ではないだろうか。

藤場 芳子(ふじば よしこ)

1954年生まれ。金沢教区常讃寺副住職。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎連日35℃近くだった猛暑もましになり、赤トンボの姿を見たり虫の声を聞いたりするなどほんの少しですが秋の気配を感じるようになりました。大阪府新型コロナ警戒信号(大阪モデル)は未だ赤色ですが、新規陽性者数も少しずつ減少しているように見受けられます。それでも駅や商業施設での人出は多くなっているので、基本的防止対策の徹底はまだまだ必要でしょう。
 今月はお彼岸です。「彼岸」とは悟りの世界、極楽浄土のことで阿弥陀如来の仏国土です。ご先祖をご縁にして仏法に耳を傾け(コロナに気をつけて)お墓参りをいたしましょう。

合掌

2022年8月の法話

[8月の法語]

我が身を深く悲しむ心に 仏法のことばが響く

The words of the Buddha's teaching resonate in the mind of those persons who deeply lament over themselves.

宮城 顗(みやぎしずか)

[法話]

 私たちは、無意識に自分を飾(かざり)りながら生きています。人に良く見られたいという心のはたらきです。

同行(どうぎょう)のまへにてはよろこぶものなり、これ名聞(みょうもん=名声を求めて世間体をつくろうこと)なり。信(しん)のうへは一人居てよろこぶ法なり。
(『蓮如上人御一代記聞書』『註釈版聖典』1280頁)

 言葉を補(おぎな)って、わかりやすく解釈してみましょう。
私たちは、心からよろこびを感じていなくても、同行(=心を同じくしてともに仏道を修める人々。真宗ではその信者をいう)の前ではよろこんでいるようなふりをします。そこには、名誉心、人から良く見られたいという思いがありませんか。一人でいる時、その人の信心の姿が明らかになります。他力というのは、一人でよろこぶ教えなのです。

 何の本か忘れましたが、緊迫した戦場で、部下が上官の部屋を訪ねる場面がありました。上官は机に向かって、夢中で虫と遊んでいます。部下が入ってきたのに気づくと、「何だつまらない」という素振りで虫を振り払います。とてもリアルな場面で、印象に残っていました。おそらくソルジェニチン(1918~2008 旧ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1970年、ノーベル文学賞受賞。1974年にソ連を追放、ソ連崩壊後の1994年に帰国)だったと思います。

 人は誰にも見られていないと、安心します。そして本当の姿が現れます。緊張を強(し)いられる戦場。上官という立場。そこで彼は、自分の役割を演じなければなりません。けれど外に見えているのが、彼のすべてではなかったのです。

 もし心の中を見られる眼鏡があったら、私たちは一日も生きていけないでしょう。何より私が、私の心を知っているからです。むさぼり、いかり、おろかさ、これらのはたらきが絡(から)み合って、さまざまな情感が起こりますが、その中でもっとも醜(みにく)いものの一つが、妬(ねた)みだと思います。私たちは決して、人の成功をよろこぶことができないのです。

 お勤めもする、お聴聞もする、勉強もする。家に帰って一人になった時、お念仏が出てくるかどうか。自分が一番よくわかります。「構えていない時のお念仏。それが本当のお念仏ですよ」と蓮如上人は言われるのです。法然聖人にも、同様の教化は多くあります。

 むさぼり。いかり。おろかさ。本当にそんな自分であったと気づくほど、つらいことはありません。その時、「そのようなあなたがめあてだったのです」と、本願のことばが響き渡るのです。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎先月は安倍元首相の銃撃事件があり大変驚くとともに日本が世界でも治安のよい国であるともはや言えなくなったと痛感しました。
 また新型コロナウイルスの感染拡大が第7波に入り、連日感染者数が増加しています。大阪府新型コロナ警戒信号(大阪モデル)は赤色となり感染防止対策の徹底等が勧められています。ただし熱中症防止の観点から、屋外でマスクの必要のない場面(2メートル以上の距離を確保できる。会話をほとんど行わない)では、マスクを外すことを推奨しますとのことです。  コロナ渦に振り回されて3度目のお盆を迎えます。何卒心安らかにお迎え下さいますよう、またご自愛下さいますようお念じ申し上げます。

合掌

2022年7月の法話

[7月の法語]

この心も身も全部 如来からのいただきもの

The person I am now is thanks to Amida's working.

大峯顯(おおみねあきら)

[法話]

 大峯先生はこの言葉のあとに、こう書かれています。

この命は私の中で動いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。誰のものでもないというのは、如来のものということです。ただの物質という意味ではなくて、人間の力ではない不思議なものからいただいた不思議な力です。
(『本願海流』本願寺出版社)

 この文章を読むと、私は自分の子育てについて言い当てられたような、胸をつかれる思いがします。

 今から二十年前に娘を授かり、私は母となりました。それまで何者でもなかった私が、「お母さん」という確かな役割を得ることとなったその時の喜びと安堵(あんど)は、計(はか)り知れないものがありました。その後は二年おきに三人の男の子を出産しましたが、子育ては私の想像をはるかに超える大変さで、周囲の助けを得て、何とか子どもたちの世話をする毎日でした。慌(あわ)ただしい一日が終わり、子どもがようやく寝ついた頃、その静けさの中で普段の自分の言動の至らなさがよみがえり、思い描いていた優しいお母さん像とはあまりに程遠い姿に、思わず涙がこぼれました。

 四人の子どもたちの中でも、特に私を悩ませていたのは長男でした。家族を困惑させる言動ばかりが目立ち、私はたびたび怒りのボルテージを最大にして手をあげることもありました。怒ってばかりの日々に「もうこの子とは一緒に暮らせない」とまで思い詰めるほどでした。

 なぜ、私は子どもたちにこれほどまでに翻弄(ほんろう)されていたのでしょう。今になって考えると、それは子どもたちを自分の思い通りにしようとしていたからだと思います。私の体を通して生まれてきたことから、自分の身の一部のような感覚を持ち、意のままにしたいという気持ちが常に根底にありました。だからこそ全然思い通りにならない日常に戸惑い、苛立(いらだ)ちを募(つの)らせていたのでしょう。それは子どもたちを「私の所有物」としていたということです。

 長女が生まれた時、今は亡き父から、カリール・ジブランの「子どもについて」という詩を贈られました。その詩の中に、

あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。
(佐久間彪訳『預言者』至光社)

という一節があります。最近になってようやくこの詩の意味を実感するようになりました。この世に生まれたということは、すでに親から解き放たれているということなのでしょう。

 あれほど大人の手を焼かせていた長男は、中学生になる前には見違えるほど落ち着いて生活をするようになりました。子どもたちは皆、それぞれが違った形で人生を歩んでいきます。強くしならせた弓から放たれた矢は、見事なほど真っ直ぐ、遠くに飛んでいくようです。

和田 淑子(わだ よしこ)

1975年生まれ。岐阜高山教区照明寺坊守。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[註]大峯顯(おおみねあきら):(1929- 2018)日本の哲学者、浄土真宗僧侶、俳人。 文学博士(京都大学・論文博士・1976年)

◎異常な(危険な)暑さが続いています(6月30日現在)。熱中症で救急搬送された人数が6月20日から26日までの1週間で4,551人となり、1週間の搬送人数としては6月の記録を取り始めた2010年以降で過去最多だそうです。熱中症予防のポイントは、「暑さを避けること」「こまめな水分補給」等。マスクを着けていると皮膚からの熱が逃げにくくなり、気付かないうちに脱水になる等、体温調節がしづらくなってしまうことから、熱中症を防ぐため、屋外等で周りの人と距離をとれる時はマスクを外すことが推奨されています。室内でもエアコンを上手に使って暑い夏を乗り越えましょう。

合掌

2022年6月の法話

[6月の法語]

「あたりまえだ」と言うて まだ不足を言うて生きている

We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.

松扉哲雄(しょうひてつお)

[法話]

 もう少し、「捨てる」ことを考えてみましょう。空也(くうや)上人(註1)が言われたように、仏道は「捨てる」ことにつきるからです。

 5月のお話で、私たちは「求めながら」生きていると言いました。これは仏教でいう「集諦(じったい=仏教の基本的真理である四諦(註2)の一つ)」を、わかりやすく日本語で表してみたのです。集諦は苦の原因として説かれています。ここで「求める」というのは、「あれが欲しい」「これが食べたい」などといったものに限りません。「歳をとりたくない(老)」。「健康が欲しい(病)」。「死にたくない(死)」。これが人生の根本苦と呼ばれるのは、私の心がそれを受け入れられないことを表していたのです。

 『事件現場清掃人が行く』(高江洲敦 著/幻冬舎アウトロー文庫)という本には、さまざまなことを教えられました。テレビでいろいろな職業、それも特殊な職業の紹介をしている番組がありました。そこでこの人のことを知ったのです。この方の仕事は、何らかの事情で孤独死をされていた部屋の清掃をすることです。初めはほとんど偶然から、頼まれた部屋の清掃を引き受けられたようです。そのうち次第に依頼が増え、とうとうそれがこの方の職業になってしまいました。

 いろいろな事件現場が描かれています。もっとも極端な例は、たまたま新築の密閉性が高いマンションであったため、半年後に発見された例などもあったそうです。この方のプロ意識は、全く痕跡(こんせき=過去にある事物があったことを示す、あとかた。形跡)をとどめないように清掃するというところにあります。そのため化学の勉強までして、特殊な薬品やそのノウハウを身につけられています。いい加減な業者だと、冬の間はわからなくても、暖かくなると痕跡が出てくることがあるといいます。

 事件現場は現代社会の縮図(しゅくず=現実の様相を、規模を小さくして端的に表したもの)です。そしていろいろな現場の姿を読ませてもらうと、死は単なる終わりでなく、死の姿そのものも、人生の縮図であることがよくわかります。文字通り、生も死もその人の人生なのです。死は単なる終着点ではなく、いまどのような人生を歩んでいるかということと、密接に関わっていたのです。

 この本で一番教えられたのは、我々が普通に使っている「孤独死」という言葉です。現代のように一人住まいが多いと、人知れず亡くなることも多くなります。それは孤独死ではないと、この方は言われます。本当の孤独死は、「亡くなった方を悼(いた)む(=人の死を悲しみ嘆く)人が一人もいない。それを孤独死だと考えます」とありました。深い言葉です。

 「あたりまえ」という言葉は、『広辞苑』では、「ごく普通であること」と定義されています。眠りについて、目が覚めて、また一日が始まる。私たちはそれを「あたりまえ」にしています。けれども、79億の人口に一人も同じ顔がないのと同じく、この世界に私という人間は一人しかいない。そしてその私に、今日という日は一日しかない。これほど不思議なことがあるでしょうか。

山本 攝叡(やまもとせつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]
(1)「空也上人」(903~972)平安前期に浄土信仰を説いた民間布教僧。 踊念仏の祖「こうや」とも読む。 諸国を巡り,橋を架け,道を開き井池を造った。 常に南無阿弥陀仏の六字名号を唱え,諸人に念仏をすすめ,「市聖 (いちのひじり) 」と呼ばれた。
(2)「四諦(したい)」下記の四つの真理(諦)のこと。
「苦諦(くたい)」迷いのこの世は一切が苦であるという真理(真実)。
「集諦(じったい)」苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真理。
「滅諦(めったい)」苦の原因の滅という真理。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
「道諦(どうたい)」悟りに導く実践という真理。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ

◎先月は3年ぶりでしたが春の法要(永代経)を厳修しました。感染対策のために人数制限してのお勤めでしたが、ご参加下さいました皆様には心より御礼申し上げます。少しずつですが元の状態に戻っていくことを願っています。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌

2022年5月の法話

[5月の法語]

失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり

Some people count what they have lost, while others appreciate what they have been given.

豊島学由(とよしまがくゆう)

[法話]

 全国で新型コロナウイルスが発生した昨年来、私たちの日常は一変し、これまで当たり前すぎて気にも留めなかった生活の一つひとつが制限されるようになりました。必須(ひっす)となったマスクの着用は人の表情をわかりにくくし、フィジカルディスタンス(=物理的に一定の距離を保つこと)の確保は人が集まり言葉を交わすことを困難にさせ、またリモート技術などの導入は一定の利便性(りべんせい=便利であること)が認められる一方で、他者と直(じか)に顔を合わせる機会を著しく減少させました。

 自坊(じぼう=自分の住んでいる寺)でも三月以降、予定していた諸行事の中止を余儀(よぎ)なくされ、本堂に人が集まることがなくなりました。感染状況がやや落ち着き、行事を再開できたのは九月のことです。感染防止に留意(りゅうい)するとはいえ、お斎(とき=仏事法会 (ほうえ) のときに出す食事)は中止、法要や法話は短縮せざるをえない中、お参りする人はいるだろうかと案じていましたが、予想に反し多くの門徒さんがお参りされました。マスク越しで控(ひか)えめながらも、久しぶりにお念仏と正信偈(しょうしんげ)の声が本堂内に響きました。

 行事の後、ある門徒さんと談笑しました。その方は夫を亡くしてから一人暮らしで、コロナ発生以後はあらゆる集まりが全て中止になり、近くの知り合いを訪ねるのも人目を憚(はばか)って自粛(じしゅく)していたため、人と言葉を交わすことがほとんどない生活をしていたとのことでした。その方から「お寺にお参りするのは今まであたりまえだったけど、今日は久々にみんなの顔が見られて本当にうれしかった。これからもお参りの場を開いてほしい」と言われ、はっとしました。私は「これまでどおり」ということばかりに気を取られていました。一方で門徒さんは、どのような形態になったとしても、ともにお参りする人たちと出会うことのできる「場」を求めていたのです。

 この方だけでなく、お参りされた方の多くもまた、同じ思いで来られたのではないでしょうか。そこで語られるのは必ずしも念仏や信心の話ではないかもしれません。しかし、再会できた喜びをはじめ、コロナ発生以降の寂しさや不安を互いに吐露(とろ=心に思っていることを、隠さずうちあけること)し分かちあう門徒さんたちの姿に、あたりまえに人が集まっていた時には気づきもしなかった、お寺という「場」が担(にな)っていた役割を教えられたのでした。

失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり

  一見、対比表現のように見えるこの二つの姿は、必ずしも相反(そうはん=互いに反対であること)するあり方ではないのでしょう。かけがえのないものを失い、もう元には戻らないと知りながらも忘れられず、追い求めずにおられない。そのような悲しみや苦悩をとおしてこそ、すでに「与えられ」ていた「もの」があったことに気づかされ「感謝する」という心が生じることがあるのです。この未曾有(みぞう=今までに一度もなかったこと。また、非常に珍しいこと)の事態のただ中で、お寺にも容易に集(つど)うことができない状況が再び訪れるかもしれません。しかし、このような中だからこそ、ただ場を開くこと、その開かれた場にただ集うことの「有難さ」を感じるのです。

三木 朋哉(みき ともや)

1978年生まれ。岐阜高山教区淨福寺住職。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎「今月の法語」の豊島学由先生は30年以上も前になりますが当寺の法要でご法話いただいたり宗派の研修会でお世話になったりしました。ご往生されてもう数年になりますが聴者を引き込んでゆく語り口が印象的でした。
連日報道されるロシアのウクライナ軍事侵攻には心が痛みます。世界中に様々な影響を及ぼしていることから一刻も早く停戦することを願います。
新型コロナウイルスの新規感染者数も高止まりと言われていますが少しずつ減少しているように思えます。大阪府の新型コロナ警戒信号も赤色から黄色になってしばらく経ちました。これからゴールデンウィークになり人の移動も増えますので基本的な感染予防策は続けた方がよさそうです。なるべくストレスを少なくして新緑の季節を元気に過ごしたいものです。

合掌

2022年4月の法話

[4月の法語]

如来の本願は 風のように身に添(そ)い 地下水の如(ごと)くに流れ続ける

Amida's Original Vow always envelops us like air and ceaselessly flows like spring water.

平野 修

[法話]

 東風。 「こち」という読みは知っていましたが、なぜ「こち」というのかわかりません。風のことを少し調べようと思い、インターネットを見てみました。

 

 オドロキマシタ。「風、異名」と検索(けんさく)してみると、なんと無数といっていいほど、風の名前が出てきます。海や山などの自然につつまれた日本は、これだけ多く風の名前を使い分け、生活を営(いとな)んできたのでした。

 

 鳰(にお)の浦風という言葉は知っていました。母親が滋賀県の生まれで、子どものころから耳にしていたのです。「にお」というのは、かいつぶりという鳥の古名だそうで、それが生息する琵琶湖に吹く風をいう言葉です。琵琶湖のことを鳰の湖と呼ぶこともあります。 このように風には、地域だけに通じる名前まであるのでした。

 

 今月のことばにある「風のように身に添い」といわれている風は、たとえば春のやわらかなそよ風でしょうか。目には見えなくても、変わることなく私をつつんであるはたらきを、いうのでしょう。

 

 地下水脈も目には見えません。見えなくても、途切れることなく流れ続けています。
以前住んでいた家には、井戸がありました。水道も通っていましたが、夏冷たく、冬温かい井戸水は重宝(ちょうほう)しました。水道もあまり整備されていなかったころは、よく断水がありました。そんな時は、近所の人が水をもらいにこられます。私の家は、ほとんどを井戸水でまかなっていたのです。
夕方になると、井戸水を汲(く)んで風呂に入れるのが、子どもの仕事でした。五右衛門風呂をバケツで満たすのは、ちょっとした重労働です。ザルに紐(ひも)をつけ、スイカを乗せて井戸に下ろします。よく冷えたスイカをいただくのが、夏の楽しみの一つです。

 

 このように井戸は、私たちの生活全般を支えてくれていたのでした。 昭和の何年頃だったか、家からかなり離れた所ですが、立て続けに大きな工場が建ちました。直接の原因かどうかわかりませんが、そのころ、井戸水が出なくなってしまったのです。地下水脈が変わったのでしょう。不便なので、職人さんにお願いして、深く掘り直してもらったことを覚えています。生活の支えとしての井戸ほど、ありがたいものはなかったのです。

 

風も地下水も、その恩恵を受けながら、直接目にすることはできません。如来の本願も、目には見えないけれど、やはり私たちの人生を、豊かに支えてくださってあったのです。
「こち」の語源はいくつか説があって、一定していないようです。

 

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎あちらこちらで桜の花が満開になってきました。先月はコロナの状況に加えてロシアのウクライナ軍事侵攻、福島県沖地震など大変な出来事が次々とニュースされ、お彼岸や春の訪れを忘れそうになりました。その一方でまん延防止等重点措置がようやく解除され人出がかなり増えたように感じます。大阪府はリバウンドを防ぐためか新型コロナ警戒信号は赤色のままで、引き続き感染防止対策の徹底をお願いしますとのことです。いろんなことを抱えたままで新年度を迎えますが、阿弥陀様が常に支えて下さっていることを忘れずにお念仏申したいと思います。

合掌

2022年3月の法話

[3月の法語]

われ称(とな)え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親の呼び声

Although it is me that utters and hears the phrase "Namo Amida Butsu," actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

原口 針水

[法話]

 ラムネ瓶の栓をするための玉を何というかご存知ですか? 一般的にあの玉は「ビー玉」と呼ばれますが、正式な名称を「A玉」というそうです。

 

  ラムネは炭酸水ですから、しっかりと栓をする必要があります。そのため栓の役割をするガラス玉は完全な円形で少しでも傷があってはなりません。厳しい規格審査に合格したものがラムネ玉として認められた〝A玉〟になれます。そして規格審査の〝A〟に不合格だった玉は〝B〟、つまり〝B玉〟と呼ばれています。B玉は規格に不合格ではあるけれど、せっかく作ったものを捨てるのはもったいないので、ラムネを買ってくれる子どもにあげようと駄菓子屋に置かれるようになりました。やがてB玉は「ビー玉」と呼ばれるようになり、いまも広く親しまれています。

 

 皆さんはA玉ですか? それともB玉ですか? 自分を振り返った時、A玉のように挫折(ざせつ)なく生きてこられたと思える人は少ないでしょう。誰しもB玉のように、世間の価値観から落ちこぼれて、挫折(ざせつ)して唇を噛(か)みながら悔(くや)し涙を流した経験が、大なり小なりあるのではないでしょうか?

 

 世間には人間をはかる価値観が溢(あふ)れています。有用や有益で人間がランク付けされ、間に合う人間には居場所が与えられますが、世間の価値観からふるい落とされた人間の居場所は、小さく狭くなって、どこにもなくなってしまいます。  そういった世間を生きていると、知らず知らずに世間の価値観は自分の価値観になります。A玉のように時流に乗りうまく生きられているときは何も問題を感じませんが、B玉のように世間から価値のない者と見捨てられたとき、自分で自分をはかり、「こんな自分でなかったら」と自分で自分を見捨ててしまいます。そして、自分を価値のないものと認めたくないから、自分より下の人間を探すことで自尊心を保とうとする。生きるということの意味を、世間の価値観だけで見出そうとすると、劣等感、そして優越感から解放されることはないのです。

 

 仏の教えは世間を「覆真(ふしん)」と言い当ててくださいます。世間の価値観は、真実・本当のことを覆(おお)い隠しているから、世間に生きる我々は本当ではないことを本当のように勘違(かんちが)いし、迷い、苦悩しているのです。

 

 「南無阿弥陀仏」は、私が称(とな)え私が聞く私の声です。しかし、私が称え私が聞いている「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の「(浄土に)つれてゆくぞ」という呼び声であると原口針水先生は言われます。世間の価値観が覆い隠し見えなくしていた真実を、我々が生まれるべき真実の国として教え、この国に生まれなさい、連れて行くぞと呼んでくださっているというのです。そして、その呼び声は、「我々が生きる世間は真実ではないぞ、我々が体質にまでしている世間の価値観は真実ではないぞ」、と言い当て、教えてくださっているのでしょう。「南無阿弥陀仏」は、我々の体質にまでなっている人間を見捨てるような世間の価値観が崩(くず)れる響きなのです。

 

 B玉は審査に合格できなかった規格外の落ちこぼれかもしれません。しかしビー玉は、えらばれ、はかられ、見捨てられるという価値観ではないところで、今でも居場所があります。無条件にそのままを受け入れられているそのすがたは、濁った眼で覆い隠されて見えないけれど、我々が深いところで求めている真実・本当のことを教えてくれているように思います。

 

谷 大輔(たに だいすけ)

1967年生まれ。京都教区良覺寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎先月北京オリンピックが開催され日本人選手の活躍も多く報道されました。その中で男子フィギュアスケート代表、羽生結弦選手の発言が印象に残りましたので以下に掲載します。
「大人になって、人生って報われることがすべてじゃないんだなと。ただ報われなかった「今」は、報われなかった「今」で幸せだなと。不条理なことはたくさんありますけれど、少しでも前を向いて歩いて行けるように頑張っていきたいと思います。」
今回、羽生選手は右足首負傷もあってメダルを獲得できませんでしたが「メダル獲得」という世間の価値観を超えてその存在感を放っていたように思えました。
今月のご法話と羽生選手の発言と何かつながるところがあるような気がして取り上げてみました。

合掌