松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2022年8月の法話

[8月の法語]

我が身を深く悲しむ心に 仏法のことばが響く

The words of the Buddha's teaching resonate in the mind of those persons who deeply lament over themselves.

宮城 顗(みやぎしずか)

[法話]

 私たちは、無意識に自分を飾(かざり)りながら生きています。人に良く見られたいという心のはたらきです。

同行(どうぎょう)のまへにてはよろこぶものなり、これ名聞(みょうもん=名声を求めて世間体をつくろうこと)なり。信(しん)のうへは一人居てよろこぶ法なり。
(『蓮如上人御一代記聞書』『註釈版聖典』1280頁)

 言葉を補(おぎな)って、わかりやすく解釈してみましょう。
私たちは、心からよろこびを感じていなくても、同行(=心を同じくしてともに仏道を修める人々。真宗ではその信者をいう)の前ではよろこんでいるようなふりをします。そこには、名誉心、人から良く見られたいという思いがありませんか。一人でいる時、その人の信心の姿が明らかになります。他力というのは、一人でよろこぶ教えなのです。

 何の本か忘れましたが、緊迫した戦場で、部下が上官の部屋を訪ねる場面がありました。上官は机に向かって、夢中で虫と遊んでいます。部下が入ってきたのに気づくと、「何だつまらない」という素振りで虫を振り払います。とてもリアルな場面で、印象に残っていました。おそらくソルジェニチン(1918~2008 旧ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1970年、ノーベル文学賞受賞。1974年にソ連を追放、ソ連崩壊後の1994年に帰国)だったと思います。

 人は誰にも見られていないと、安心します。そして本当の姿が現れます。緊張を強(し)いられる戦場。上官という立場。そこで彼は、自分の役割を演じなければなりません。けれど外に見えているのが、彼のすべてではなかったのです。

 もし心の中を見られる眼鏡があったら、私たちは一日も生きていけないでしょう。何より私が、私の心を知っているからです。むさぼり、いかり、おろかさ、これらのはたらきが絡(から)み合って、さまざまな情感が起こりますが、その中でもっとも醜(みにく)いものの一つが、妬(ねた)みだと思います。私たちは決して、人の成功をよろこぶことができないのです。

 お勤めもする、お聴聞もする、勉強もする。家に帰って一人になった時、お念仏が出てくるかどうか。自分が一番よくわかります。「構えていない時のお念仏。それが本当のお念仏ですよ」と蓮如上人は言われるのです。法然聖人にも、同様の教化は多くあります。

 むさぼり。いかり。おろかさ。本当にそんな自分であったと気づくほど、つらいことはありません。その時、「そのようなあなたがめあてだったのです」と、本願のことばが響き渡るのです。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

◎先月は安倍元首相の銃撃事件があり大変驚くとともに日本が世界でも治安のよい国であるともはや言えなくなったと痛感しました。
 また新型コロナウイルスの感染拡大が第7波に入り、連日感染者数が増加しています。大阪府新型コロナ警戒信号(大阪モデル)は赤色となり感染防止対策の徹底等が勧められています。ただし熱中症防止の観点から、屋外でマスクの必要のない場面(2メートル以上の距離を確保できる。会話をほとんど行わない)では、マスクを外すことを推奨しますとのことです。  コロナ渦に振り回されて3度目のお盆を迎えます。何卒心安らかにお迎え下さいますよう、またご自愛下さいますようお念じ申し上げます。

合掌

2022年7月の法話

[7月の法語]

この心も身も全部 如来からのいただきもの

The person I am now is thanks to Amida's working.

大峯顯(おおみねあきら)

[法話]

 大峯先生はこの言葉のあとに、こう書かれています。

この命は私の中で動いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。誰のものでもないというのは、如来のものということです。ただの物質という意味ではなくて、人間の力ではない不思議なものからいただいた不思議な力です。
(『本願海流』本願寺出版社)

 この文章を読むと、私は自分の子育てについて言い当てられたような、胸をつかれる思いがします。

 今から二十年前に娘を授かり、私は母となりました。それまで何者でもなかった私が、「お母さん」という確かな役割を得ることとなったその時の喜びと安堵(あんど)は、計(はか)り知れないものがありました。その後は二年おきに三人の男の子を出産しましたが、子育ては私の想像をはるかに超える大変さで、周囲の助けを得て、何とか子どもたちの世話をする毎日でした。慌(あわ)ただしい一日が終わり、子どもがようやく寝ついた頃、その静けさの中で普段の自分の言動の至らなさがよみがえり、思い描いていた優しいお母さん像とはあまりに程遠い姿に、思わず涙がこぼれました。

 四人の子どもたちの中でも、特に私を悩ませていたのは長男でした。家族を困惑させる言動ばかりが目立ち、私はたびたび怒りのボルテージを最大にして手をあげることもありました。怒ってばかりの日々に「もうこの子とは一緒に暮らせない」とまで思い詰めるほどでした。

 なぜ、私は子どもたちにこれほどまでに翻弄(ほんろう)されていたのでしょう。今になって考えると、それは子どもたちを自分の思い通りにしようとしていたからだと思います。私の体を通して生まれてきたことから、自分の身の一部のような感覚を持ち、意のままにしたいという気持ちが常に根底にありました。だからこそ全然思い通りにならない日常に戸惑い、苛立(いらだ)ちを募(つの)らせていたのでしょう。それは子どもたちを「私の所有物」としていたということです。

 長女が生まれた時、今は亡き父から、カリール・ジブランの「子どもについて」という詩を贈られました。その詩の中に、

あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。
(佐久間彪訳『預言者』至光社)

という一節があります。最近になってようやくこの詩の意味を実感するようになりました。この世に生まれたということは、すでに親から解き放たれているということなのでしょう。

 あれほど大人の手を焼かせていた長男は、中学生になる前には見違えるほど落ち着いて生活をするようになりました。子どもたちは皆、それぞれが違った形で人生を歩んでいきます。強くしならせた弓から放たれた矢は、見事なほど真っ直ぐ、遠くに飛んでいくようです。

和田 淑子(わだ よしこ)

1975年生まれ。岐阜高山教区照明寺坊守。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]大峯顯(おおみねあきら):(1929- 2018)日本の哲学者、浄土真宗僧侶、俳人。 文学博士(京都大学・論文博士・1976年)

◎異常な(危険な)暑さが続いています(6月30日現在)。熱中症で救急搬送された人数が6月20日から26日までの1週間で4,551人となり、1週間の搬送人数としては6月の記録を取り始めた2010年以降で過去最多だそうです。熱中症予防のポイントは、「暑さを避けること」「こまめな水分補給」等。マスクを着けていると皮膚からの熱が逃げにくくなり、気付かないうちに脱水になる等、体温調節がしづらくなってしまうことから、熱中症を防ぐため、屋外等で周りの人と距離をとれる時はマスクを外すことが推奨されています。室内でもエアコンを上手に使って暑い夏を乗り越えましょう。

合掌

2022年6月の法話

[6月の法語]

「あたりまえだ」と言うて まだ不足を言うて生きている

We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.

松扉哲雄(しょうひてつお)

[法話]

 もう少し、「捨てる」ことを考えてみましょう。空也(くうや)上人(註1)が言われたように、仏道は「捨てる」ことにつきるからです。

 5月のお話で、私たちは「求めながら」生きていると言いました。これは仏教でいう「集諦(じったい=仏教の基本的真理である四諦(註2)の一つ)」を、わかりやすく日本語で表してみたのです。集諦は苦の原因として説かれています。ここで「求める」というのは、「あれが欲しい」「これが食べたい」などといったものに限りません。「歳をとりたくない(老)」。「健康が欲しい(病)」。「死にたくない(死)」。これが人生の根本苦と呼ばれるのは、私の心がそれを受け入れられないことを表していたのです。

 『事件現場清掃人が行く』(高江洲敦 著/幻冬舎アウトロー文庫)という本には、さまざまなことを教えられました。テレビでいろいろな職業、それも特殊な職業の紹介をしている番組がありました。そこでこの人のことを知ったのです。この方の仕事は、何らかの事情で孤独死をされていた部屋の清掃をすることです。初めはほとんど偶然から、頼まれた部屋の清掃を引き受けられたようです。そのうち次第に依頼が増え、とうとうそれがこの方の職業になってしまいました。

 いろいろな事件現場が描かれています。もっとも極端な例は、たまたま新築の密閉性が高いマンションであったため、半年後に発見された例などもあったそうです。この方のプロ意識は、全く痕跡(こんせき=過去にある事物があったことを示す、あとかた。形跡)をとどめないように清掃するというところにあります。そのため化学の勉強までして、特殊な薬品やそのノウハウを身につけられています。いい加減な業者だと、冬の間はわからなくても、暖かくなると痕跡が出てくることがあるといいます。

 事件現場は現代社会の縮図(しゅくず=現実の様相を、規模を小さくして端的に表したもの)です。そしていろいろな現場の姿を読ませてもらうと、死は単なる終わりでなく、死の姿そのものも、人生の縮図であることがよくわかります。文字通り、生も死もその人の人生なのです。死は単なる終着点ではなく、いまどのような人生を歩んでいるかということと、密接に関わっていたのです。

 この本で一番教えられたのは、我々が普通に使っている「孤独死」という言葉です。現代のように一人住まいが多いと、人知れず亡くなることも多くなります。それは孤独死ではないと、この方は言われます。本当の孤独死は、「亡くなった方を悼(いた)む(=人の死を悲しみ嘆く)人が一人もいない。それを孤独死だと考えます」とありました。深い言葉です。

 「あたりまえ」という言葉は、『広辞苑』では、「ごく普通であること」と定義されています。眠りについて、目が覚めて、また一日が始まる。私たちはそれを「あたりまえ」にしています。けれども、79億の人口に一人も同じ顔がないのと同じく、この世界に私という人間は一人しかいない。そしてその私に、今日という日は一日しかない。これほど不思議なことがあるでしょうか。

山本 攝叡(やまもとせつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]
(1)「空也上人」(903~972)平安前期に浄土信仰を説いた民間布教僧。 踊念仏の祖「こうや」とも読む。 諸国を巡り,橋を架け,道を開き井池を造った。 常に南無阿弥陀仏の六字名号を唱え,諸人に念仏をすすめ,「市聖 (いちのひじり) 」と呼ばれた。
(2)「四諦(したい)」下記の四つの真理(諦)のこと。
「苦諦(くたい)」迷いのこの世は一切が苦であるという真理(真実)。
「集諦(じったい)」苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真理。
「滅諦(めったい)」苦の原因の滅という真理。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
「道諦(どうたい)」悟りに導く実践という真理。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ

◎先月は3年ぶりでしたが春の法要(永代経)を厳修しました。感染対策のために人数制限してのお勤めでしたが、ご参加下さいました皆様には心より御礼申し上げます。少しずつですが元の状態に戻っていくことを願っています。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌

2022年5月の法話

[5月の法語]

失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり

Some people count what they have lost, while others appreciate what they have been given.

豊島学由(とよしまがくゆう)

[法話]

 全国で新型コロナウイルスが発生した昨年来、私たちの日常は一変し、これまで当たり前すぎて気にも留めなかった生活の一つひとつが制限されるようになりました。必須(ひっす)となったマスクの着用は人の表情をわかりにくくし、フィジカルディスタンス(=物理的に一定の距離を保つこと)の確保は人が集まり言葉を交わすことを困難にさせ、またリモート技術などの導入は一定の利便性(りべんせい=便利であること)が認められる一方で、他者と直(じか)に顔を合わせる機会を著しく減少させました。

 自坊(じぼう=自分の住んでいる寺)でも三月以降、予定していた諸行事の中止を余儀(よぎ)なくされ、本堂に人が集まることがなくなりました。感染状況がやや落ち着き、行事を再開できたのは九月のことです。感染防止に留意(りゅうい)するとはいえ、お斎(とき=仏事法会 (ほうえ) のときに出す食事)は中止、法要や法話は短縮せざるをえない中、お参りする人はいるだろうかと案じていましたが、予想に反し多くの門徒さんがお参りされました。マスク越しで控(ひか)えめながらも、久しぶりにお念仏と正信偈(しょうしんげ)の声が本堂内に響きました。

 行事の後、ある門徒さんと談笑しました。その方は夫を亡くしてから一人暮らしで、コロナ発生以後はあらゆる集まりが全て中止になり、近くの知り合いを訪ねるのも人目を憚(はばか)って自粛(じしゅく)していたため、人と言葉を交わすことがほとんどない生活をしていたとのことでした。その方から「お寺にお参りするのは今まであたりまえだったけど、今日は久々にみんなの顔が見られて本当にうれしかった。これからもお参りの場を開いてほしい」と言われ、はっとしました。私は「これまでどおり」ということばかりに気を取られていました。一方で門徒さんは、どのような形態になったとしても、ともにお参りする人たちと出会うことのできる「場」を求めていたのです。

 この方だけでなく、お参りされた方の多くもまた、同じ思いで来られたのではないでしょうか。そこで語られるのは必ずしも念仏や信心の話ではないかもしれません。しかし、再会できた喜びをはじめ、コロナ発生以降の寂しさや不安を互いに吐露(とろ=心に思っていることを、隠さずうちあけること)し分かちあう門徒さんたちの姿に、あたりまえに人が集まっていた時には気づきもしなかった、お寺という「場」が担(にな)っていた役割を教えられたのでした。

失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり

  一見、対比表現のように見えるこの二つの姿は、必ずしも相反(そうはん=互いに反対であること)するあり方ではないのでしょう。かけがえのないものを失い、もう元には戻らないと知りながらも忘れられず、追い求めずにおられない。そのような悲しみや苦悩をとおしてこそ、すでに「与えられ」ていた「もの」があったことに気づかされ「感謝する」という心が生じることがあるのです。この未曾有(みぞう=今までに一度もなかったこと。また、非常に珍しいこと)の事態のただ中で、お寺にも容易に集(つど)うことができない状況が再び訪れるかもしれません。しかし、このような中だからこそ、ただ場を開くこと、その開かれた場にただ集うことの「有難さ」を感じるのです。

三木 朋哉(みき ともや)

1978年生まれ。岐阜高山教区淨福寺住職。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎「今月の法語」の豊島学由先生は30年以上も前になりますが当寺の法要でご法話いただいたり宗派の研修会でお世話になったりしました。ご往生されてもう数年になりますが聴者を引き込んでゆく語り口が印象的でした。
連日報道されるロシアのウクライナ軍事侵攻には心が痛みます。世界中に様々な影響を及ぼしていることから一刻も早く停戦することを願います。
新型コロナウイルスの新規感染者数も高止まりと言われていますが少しずつ減少しているように思えます。大阪府の新型コロナ警戒信号も赤色から黄色になってしばらく経ちました。これからゴールデンウィークになり人の移動も増えますので基本的な感染予防策は続けた方がよさそうです。なるべくストレスを少なくして新緑の季節を元気に過ごしたいものです。

合掌

2022年4月の法話

[4月の法語]

如来の本願は 風のように身に添(そ)い 地下水の如(ごと)くに流れ続ける

Amida's Original Vow always envelops us like air and ceaselessly flows like spring water.

平野 修

[法話]

 東風。 「こち」という読みは知っていましたが、なぜ「こち」というのかわかりません。風のことを少し調べようと思い、インターネットを見てみました。

 

 オドロキマシタ。「風、異名」と検索(けんさく)してみると、なんと無数といっていいほど、風の名前が出てきます。海や山などの自然につつまれた日本は、これだけ多く風の名前を使い分け、生活を営(いとな)んできたのでした。

 

 鳰(にお)の浦風という言葉は知っていました。母親が滋賀県の生まれで、子どものころから耳にしていたのです。「にお」というのは、かいつぶりという鳥の古名だそうで、それが生息する琵琶湖に吹く風をいう言葉です。琵琶湖のことを鳰の湖と呼ぶこともあります。 このように風には、地域だけに通じる名前まであるのでした。

 

 今月のことばにある「風のように身に添い」といわれている風は、たとえば春のやわらかなそよ風でしょうか。目には見えなくても、変わることなく私をつつんであるはたらきを、いうのでしょう。

 

 地下水脈も目には見えません。見えなくても、途切れることなく流れ続けています。
以前住んでいた家には、井戸がありました。水道も通っていましたが、夏冷たく、冬温かい井戸水は重宝(ちょうほう)しました。水道もあまり整備されていなかったころは、よく断水がありました。そんな時は、近所の人が水をもらいにこられます。私の家は、ほとんどを井戸水でまかなっていたのです。
夕方になると、井戸水を汲(く)んで風呂に入れるのが、子どもの仕事でした。五右衛門風呂をバケツで満たすのは、ちょっとした重労働です。ザルに紐(ひも)をつけ、スイカを乗せて井戸に下ろします。よく冷えたスイカをいただくのが、夏の楽しみの一つです。

 

 このように井戸は、私たちの生活全般を支えてくれていたのでした。 昭和の何年頃だったか、家からかなり離れた所ですが、立て続けに大きな工場が建ちました。直接の原因かどうかわかりませんが、そのころ、井戸水が出なくなってしまったのです。地下水脈が変わったのでしょう。不便なので、職人さんにお願いして、深く掘り直してもらったことを覚えています。生活の支えとしての井戸ほど、ありがたいものはなかったのです。

 

風も地下水も、その恩恵を受けながら、直接目にすることはできません。如来の本願も、目には見えないけれど、やはり私たちの人生を、豊かに支えてくださってあったのです。
「こち」の語源はいくつか説があって、一定していないようです。

 

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎あちらこちらで桜の花が満開になってきました。先月はコロナの状況に加えてロシアのウクライナ軍事侵攻、福島県沖地震など大変な出来事が次々とニュースされ、お彼岸や春の訪れを忘れそうになりました。その一方でまん延防止等重点措置がようやく解除され人出がかなり増えたように感じます。大阪府はリバウンドを防ぐためか新型コロナ警戒信号は赤色のままで、引き続き感染防止対策の徹底をお願いしますとのことです。いろんなことを抱えたままで新年度を迎えますが、阿弥陀様が常に支えて下さっていることを忘れずにお念仏申したいと思います。

合掌

2022年3月の法話

[3月の法語]

われ称(とな)え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親の呼び声

Although it is me that utters and hears the phrase "Namo Amida Butsu," actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

原口 針水

[法話]

 ラムネ瓶の栓をするための玉を何というかご存知ですか? 一般的にあの玉は「ビー玉」と呼ばれますが、正式な名称を「A玉」というそうです。

 

  ラムネは炭酸水ですから、しっかりと栓をする必要があります。そのため栓の役割をするガラス玉は完全な円形で少しでも傷があってはなりません。厳しい規格審査に合格したものがラムネ玉として認められた〝A玉〟になれます。そして規格審査の〝A〟に不合格だった玉は〝B〟、つまり〝B玉〟と呼ばれています。B玉は規格に不合格ではあるけれど、せっかく作ったものを捨てるのはもったいないので、ラムネを買ってくれる子どもにあげようと駄菓子屋に置かれるようになりました。やがてB玉は「ビー玉」と呼ばれるようになり、いまも広く親しまれています。

 

 皆さんはA玉ですか? それともB玉ですか? 自分を振り返った時、A玉のように挫折(ざせつ)なく生きてこられたと思える人は少ないでしょう。誰しもB玉のように、世間の価値観から落ちこぼれて、挫折(ざせつ)して唇を噛(か)みながら悔(くや)し涙を流した経験が、大なり小なりあるのではないでしょうか?

 

 世間には人間をはかる価値観が溢(あふ)れています。有用や有益で人間がランク付けされ、間に合う人間には居場所が与えられますが、世間の価値観からふるい落とされた人間の居場所は、小さく狭くなって、どこにもなくなってしまいます。  そういった世間を生きていると、知らず知らずに世間の価値観は自分の価値観になります。A玉のように時流に乗りうまく生きられているときは何も問題を感じませんが、B玉のように世間から価値のない者と見捨てられたとき、自分で自分をはかり、「こんな自分でなかったら」と自分で自分を見捨ててしまいます。そして、自分を価値のないものと認めたくないから、自分より下の人間を探すことで自尊心を保とうとする。生きるということの意味を、世間の価値観だけで見出そうとすると、劣等感、そして優越感から解放されることはないのです。

 

 仏の教えは世間を「覆真(ふしん)」と言い当ててくださいます。世間の価値観は、真実・本当のことを覆(おお)い隠しているから、世間に生きる我々は本当ではないことを本当のように勘違(かんちが)いし、迷い、苦悩しているのです。

 

 「南無阿弥陀仏」は、私が称(とな)え私が聞く私の声です。しかし、私が称え私が聞いている「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の「(浄土に)つれてゆくぞ」という呼び声であると原口針水先生は言われます。世間の価値観が覆い隠し見えなくしていた真実を、我々が生まれるべき真実の国として教え、この国に生まれなさい、連れて行くぞと呼んでくださっているというのです。そして、その呼び声は、「我々が生きる世間は真実ではないぞ、我々が体質にまでしている世間の価値観は真実ではないぞ」、と言い当て、教えてくださっているのでしょう。「南無阿弥陀仏」は、我々の体質にまでなっている人間を見捨てるような世間の価値観が崩(くず)れる響きなのです。

 

 B玉は審査に合格できなかった規格外の落ちこぼれかもしれません。しかしビー玉は、えらばれ、はかられ、見捨てられるという価値観ではないところで、今でも居場所があります。無条件にそのままを受け入れられているそのすがたは、濁った眼で覆い隠されて見えないけれど、我々が深いところで求めている真実・本当のことを教えてくれているように思います。

 

谷 大輔(たに だいすけ)

1967年生まれ。京都教区良覺寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎先月北京オリンピックが開催され日本人選手の活躍も多く報道されました。その中で男子フィギュアスケート代表、羽生結弦選手の発言が印象に残りましたので以下に掲載します。
「大人になって、人生って報われることがすべてじゃないんだなと。ただ報われなかった「今」は、報われなかった「今」で幸せだなと。不条理なことはたくさんありますけれど、少しでも前を向いて歩いて行けるように頑張っていきたいと思います。」
今回、羽生選手は右足首負傷もあってメダルを獲得できませんでしたが「メダル獲得」という世間の価値観を超えてその存在感を放っていたように思えました。
今月のご法話と羽生選手の発言と何かつながるところがあるような気がして取り上げてみました。

合掌

2022年2月の法話

[2月の法語]

ふみはずしましたが 気がつけばここも 仏の道でございました

I took the wrong path but came to realized that this, too, is Amida's path.

榎本栄一(えのもとえいいち)

[法話]

生涯、一度も過(あやま)ちを犯(おか)したことがない人はないでしょう。過ちの種類、程度、中身もありますが、宗教では心に「憎しみ」が生じることも罪になります。宗教的な罪、倫理的な罪、道徳的な罪、法律に触れる罪。罪にはさまざまな基準や種類があります。
「私はまだ、法に触れるような罪は犯したことがありません」
私はよくこう言ってきましたが、ある時、はっとしたことがあります。そう、交通違反は立派な法に触れる罪だったのです。おかげで今は何年も無事故、無違反ですが、過去には何度かスピード違反、一時停止違反などで減点されています。そしてその時には必ず、「なぜ自分が、こんなところで」と、軽い「憎しみ」が生まれるのでした。

 

 『歎異抄(たんにしょう)』[註]に有名な、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(何が善であり何が悪であるのか、そのどちらも私はまったく知らない)」(『註釈版聖典』853頁)という言葉があります。親鸞聖人にとってまことの善悪は、仏さまだけご存じの世界であったのです。この世界は「そらごと、たわごと」の世界であるというのです。「そらごと」は空言、虚言、空事などの字を当てます。むなしい言葉、いつわりの言葉、ありもしない事などをいいます。「たわごと」は戯言。正しくない言葉、たわけた言葉、ふざけた言葉の意味です。

 

「今日は誰か訪ねてこられた?」
「はい。○○さんがこられました」
「どんなご用?」
「到来物(とうらいもの=よそからのもらい物。いただき物)のおすそ分けを頂きました。そのまま上がらず、帰っていかれました」

 

 ここで「訪ねてこられた」、「帰っていかれた」と書きましたが、我が家を中心にしているから、こうなるのです。○○さんからすれば、「訪ねていった」「帰ってきた」となります。私たちはどんな時でも、どこかに中心を置かないと、言葉にすることもできません。

 

 今月のことばにある「ふみはずしました」とは、おそらく具体的な経験ではないでしょう。「そらごと、たわごと」の世界にある、自分の姿を言われたものと思います。そんな世界に生きる「私」が、本願のめあて(=阿弥陀如来が救おうとするもの)であったとよろこばれていることば、それが「ここも仏の道でございました」なのでしょう。

 

山本 攝叡(やまもとせつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

[註]『歎異抄』:浄土真宗の教えの要点が論じられている書であり、なによりも親鸞聖人の語りかけがそのまま記されているところに、ひろく読む者の心を引きつける理由がある。作者は、親鸞聖人のそばに長らく仕えた、河和田(かわだ)の唯円(ゆいえん)といわれる。聖人亡きあと、その教えが異なって解釈され、種々の説がはびこるようになったことを歎(なげ)いた唯円が、同行(どうぎょう=念仏の信者)の不審を除くため、著わしたものである。

 

[2月の法語]について
 今月の法語は、榎本栄一氏(1903~1998 仏教詩人)の『念仏のうた 難度海(なんどかい)』から採られています。詩の全体は「仏の道」という題で詠(よ)まれたものであります。この法語の直前を入れると以下の通りです。
「今日も如来さまは この足弱き私の道づれになってくださる この道平坦ではありません ふみはずしましたが 気がつけばここも 仏の道でございました」

 

◎現在(1/31)新型コロナウイルスの感染拡大が大変勢いを増しています。大阪府でもまん延防止等重点措置が発令中です。今回の変異株(オミクロン株)にも基本的感染防止策(「マスク着用」「手洗い」「3密(密接・密集・密閉)回避」「換気」等)が有効とのことです。コロナ渦も三年目に入り、何回こんなことを繰り返さなければならないのかと正直うんざりするのを超えてあきらめに近い気持ちになるのも否定できませんが、一人一人の行動が大切な人と私たちの日常を守ることにつながります。ストレスを上手にコントロールしてお互い元気に過ごしたいものです。

合掌

2022年1月の法話

[1月の法語]

きょうもまた 光り輝くみ仏(ほとけ)のお顔おがみて うれしなつかし

How happy and heartwarming it is for me to gaze up at Amida's face again today.

稲垣瑞劔(いながきずいけん)

[法話]

一月の法語は、浄土真宗本願寺派の僧侶である稲垣瑞劔師(1885-1981)のお言葉、「大信海」と題する文章にある一句です。今あらためて、その文章の冒頭をいただき直したく思います。

 

南無阿弥陀仏
私を離れた如来なし
如来を離れた私なし
(法雷叢書3『願力往生』法雷会ほか)

 

  私たちは日ごろから、どのような思いで、仏さまに手を合わせているでしょうか。どのような心持ちで仏さまの尊前に座り、お念仏を申しているでしょうか。そして、光り輝く仏さまの尊顔に、日々出あえているのでしょうか。

 

  南無阿弥陀仏とは、人間の言葉ではなく、仏さまから与えられた名のりです。その名のりは、私たちの苦しみや悩みのもとを破る不可思議なる智慧の光であり、無量なるいのちの願いです。

 

 曽我量深(そがりょうじん 1875~1971 真宗大谷派僧侶、仏教思想家)先生は、「念仏は原始人の叫び也(なり)」とおっしゃられました。私たち人間は、叫び声を秘めて生きています。ところが、いのちの叫びともいうべきその声は、私たちの身の中(うち)の深い深い奥底の叫び声であるために、自分の思いや努力によって気づくことはできません。自分が何のために生まれてきたのか。本当は何を求め、何を願っているのか。どういう自分として生き、どういう自分として命を終えていきたいのかが分からない、それを「無明(むみょう=邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩)の闇」というのです。

 

  先日、ある聞法(もんぽう=仏の教えを聴聞すること)の集(つど)いで、一人の青年と出あいました。将来は真宗大谷派の僧侶として生きていこうとするその青年は、自分のあり方に不安を抱(かか)えておりました。その時、その青年の目に、ある先輩僧侶の姿が留まりました。それは、ご本尊を前にして丁寧に合掌しお念仏を申される姿、出あわれる一人ひとりに対して丁寧に頭を下げられる、真摯(しんし=まじめで熱心なこと。また、そのさま)で温かいお姿でした。そこで青年はその方に、どのような思いでそうされているのかを尋ねたそうです。するとその方は、「私ももう長くないんでね。若い皆さん方に託(たく)したいんですよ。そういう私にできることは、この私がご本尊の前でお念仏を申すことしかないんでね」と言われたそうです。その言葉を聞いた青年は、ご本尊の前に進み出て座り直し、何度もお念仏をされました。そして私に、真剣な眼差(まなざ)しで言うのです。「生まれて初めてです。お念仏をしたくなったのは...」と。その言葉は、その青年が、これまでずっと出あいたいと願ってきたこと、求めてきたことにようやく出あうことができた喜びとして、私の身に響き届きました。

 

 真実の教え、すなわち本願は、私たち人間の叫び声に呼応(こおう=一方が呼びかけ、または話しかけ、相手がそれに答えること)して説かれました。この私一人(いちにん)の叫び声を離れて仏さまはおりません。また私たちは、仏さまからの願いを離れては、自分の心の奥底にある最も盛んな要求に、気づくことはできないのでしょう。

 

 迷い、疑い、叫び続ける私たちは、今日(きょう)もまた、南無阿弥陀仏という仏さまに、信じられ、敬(うやま)われ、育てられ続けます。南無阿弥陀仏は、「もとのいのちに帰(き)せよ」と私一人を招き喚(よ)ぶ、嬉(うれ)しく、そして懐かしい、光り輝く仏さまなのです。

 

仁禮 秀嗣(にれい しゅうじ)

1969年生まれ。北海道教区圓照寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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今年の法話(2022年)

[今年の法語]

念仏はまことなき人生のまことを見せしむる光

The nenbutsu is the light which shows us the truth of our untrue lives.

正信 含英

[法話]

今も奉公(ほうこう=他人の家に雇われて、その家事・家業に従事すること)という勤め方があるのを、初めて知りました。

  先日テレビのBS放送で、大阪船場のドキュメントがあり、船場にあるお茶道具屋さんに勤める青年が、映されていました。給料はなし。小遣い程度の報酬(ほうしゅう)で、店の仕事は何でもこなします。草引きや庭掃除、トイレ掃除に接待、もろもろの仕事すべてをこなすのです。

 むろん道具のことも学びます。展示会場で、道具のどの面を正面にするか、店員たちと議論している場面もありました。

 

  一昔前は将棋の世界でも、弟子が住み込みで働いていました。しかし、直接将棋を教えてもらうことはありません。買い物から何から、用事は何でもこなします。棋力(きりょく=囲碁や将棋の腕前)は自分で磨(みが)くのです。頭角(とうかく)をあらわして(=才能・技量などが、周囲の人よりも一段とすぐれて)、プロへ進む道が見えてくればよいのですが、そうでない場合、黙って消えていくほかありません。

 宮大工さんなどの世界も、10代のころはおそらく無給で技を習うのだと思います。法隆寺の宮大工として知られる西岡常一さんの本で読んだことがあります。お師匠さんを手伝いながら、その技を「盗む」のだそうです。かんなの研(と)ぎ方や調整など、口で教えてもらってもわかりません。お師匠さんの技を見て、体で覚えます。家を建てる時、材料の木材は、どこにどれを使ってもいいのではないそうです。1本1本、育った条件が違います。日当たり、方角、それらの癖(くせ)を見抜き、一番ふさわしい場所を探すといいます。これは言葉を超えた世界です。そして最も厳しい教育の姿でもあります。

 

 宗教の体験や経験は、読書や法話を聞いている時とは限りません。木材が1本1本異なるように、私たちは、誰に代わってもらうこともできない人生を歩んでいます。大工さんが言葉では伝えられない師匠の技を「盗む」ように、自分がお念仏の味を「盗む(味わう)」ほかないでしょう。

 

  船場に勤める青年の実家も、お茶の道具屋さんだそうです。目利(めき)き(=器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。また、その能力があることや、その能力を備えた人)を育てるためだけでなく、商人の姿勢を学ばせるため、父親が奉公を勧めたといいます。報酬や給料目当てなら、そのような勤め方はできないでしょう。

 画面に映る青年は、とてもいい顔をしていました。

 

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。今年の法語カレンダーのテーマは昨年に続き「宗祖親鸞聖人に遇う」です。親鸞聖人の教えにふれた先達のお言葉を通して、あらためて宗祖に出遇っていただきたいという願いから法語が選定されています。挿絵には、俳優としても活躍される榎木孝明氏の水彩画が掲載されています。明年2023(令和5)年には、親鸞聖人のご誕生から850年という記念すべき節目を迎えます。多くの人にとって、お念仏申す日々を歩んでいく機縁となることを願っています。
 昨年、一昨年とコロナに振り回されています。変異株の発生(オミクロン株)もあってなかなか収束に至りません。感染対策をおろそかにせず一日一日を大切に過ごしたいと思います。

合掌

hougo2021

2021年12月の法話

[12月の法語]

今日である あること難(かた)き 今日である

This day, the opportunity of which is indeed difficult to have, is today.

藤代 聡麿

[法話]

 小学生の頃、たまに父親に付いてお参りに出かけた。ただそれも中学生までであった。その後訪れた反抗期は長く、三十歳を過ぎるまで半ば家出状態が続いた。寺からも田舎からも仏教からも逃げた。

 

 田舎育ちの私にとっての都会生活は、若くて元気で目的がはっきりしている内は謳歌(おうか=恵まれた幸せを、みんなで大いに楽しみ喜び合うこと)できた。しかし、人間関係に疲れ、本当にやりたいことを見失い、現実逃避でしかない日々に気づくと「このままでいいのかな」などという空(むな)しさに見舞われた。そんなある日、記憶の外に追い出していたはずの、父の言葉が思い出された。

 

 父はお参りの場ではあまり難しい話はしなかった。定番の一つは、「『か』で始まる大事なものが三つある」というものであった。「一つは感動すること。もう一つは感謝すること。最後は考え直すということ」。これだけならよくある訓話(くんわ=教えさとすための話。また、教訓的な話)のようなもので法話とは言えないのかもしれない。それでも、「なるほどなあ」と思って聞いていた。

 

 ある日、また今日も同じ話かと思って聞いていたら、父は一段声を落としてこう続けた。「まあ、自分の努力でそれができたら、仏さんは要(い)らんわな」。子どもながらに「おとん、仏さん要らんて、そんな大胆なこと言うてもええんか」と驚いたのを覚えている。

 

 しかし、あれから五十年近くが経ち、この「話を聴いて驚く」ということが、本当に大事なことだと思えるようになった。驚くことで、耳以外の感覚も作動し、知らぬ間に記憶に刻まれる。そして、たとえ忘れてしまっても、あるきっかけで思い出す。驚きのない聴聞(ちょうもん=説教や演説など耳を傾けて聞くこと)は、知識は増えても、生きて甦(よみがえ)ることはほとんどないようだ。

 

 四十歳を前に、縁あって教壇に立つことになった。中高生に宗教を教えるとなると、宗教と道徳の違いが気になり出したり、自力と他力の間に迷い込んだりするものだ。また、智者ぶる自分に気づき恥ずかしさを覚えたりもする。自己顕示(じこけんじ=自分の存在を必要以上に他人に目立つようにすること)と自己嫌悪(じこけんお=自分に嫌気がさして、自分自身をうとんじること)の往(い)ったり来たりである。そんな迷走のさなか、また父の言葉を思い出した。その時に思い出したのは、さらにその続きであった。

 

 「ええ人やから感動とか感謝ができるんやない。賢いから考え直せるんやない。本当のことに出会った時に、そうなるんや。身の上に起こるんや」。今思うに、そこに大事なことの全てがあった。

 

 藤代聡麿(ふじしろとしまろ1911~1993 真宗大谷派僧侶)先生は明治から昭和にかけて、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えに深く学ばれた曽我量深(そがりょうじん 1875~1971 真宗大谷派僧侶、仏教思想家)先生に随行し、お話を聴き続けられた方である。戦争による貧困と恐怖、科学と医療の未発達による未知・無知・迷信。スペイン風邪(一九一八~二〇)に代表される今と同じようなウイルスの蔓延(まんえん=病気や悪習などがいっぱいに広がること)による不安。そして、情報が統制され本当のことが知らされないというのが当たり前の世の中。そんな時代の中で、仏法に出遇(であ)い本当のことに気づかされた人の、心の底からあふれ出た感動と感謝の声が先の言葉なのだろう。だからこの言葉は「有り難き今日を大事に生きなさい」という道徳めいた教訓を示すのではない。きっとそうではなくて、そんなことにさえも気づかずに日々を無駄に過ごしていた自分に愕然(がくぜん=非常に驚くさま)としながらも、気づけたこと、当たり前が当たり前ではなかったのだと「考え直す縁が整ったこと」に対する喜びの声なのだろう。

 

 仏法に出遇うと、できの良い人間になれるということではない。どうしようもない自分に気づかされ、それでもそんな自分として、できることを安心してやり、迷いながらも喜んで生きていくという生活が与えられる。そんな「あること難(かた)き」生活が始まるのである。

 「これからがこれまでを決める」。同じく藤代先生の言葉である。

 

乾 文雄(いぬい ふみお)

1964年生まれ。京都教区近江第5組正念寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎先月は参詣される人数を制限したうえで2年ぶりでしたが報恩講法要を勤めさせていただきました。例年のようにお寺様方の出勤や楽人様方の雅楽演奏なしで私一人だけでしたが、何とか最後まで勤めることができました。本当にありがとうございました。コロナ渦に振り回されて2年近くになり今年も暮れようとしています。ようやく収束しつつありましたが変異株(オミクロン株)の発生(まだわからないことが多いですが)でしばらくは今まで通り基本的な感染防止対策をとった方がよさそうです。あること難い(=あることが難しい→ありがたい)今日を元気に過ごせますようお念じいたします。一年間何かとお世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌