松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

今月の法話

2023年12月の法話

[12月の法語]

一人一人がお浄土(じょうど)を (かざ)っていく 一輪一輪の花になる

Each and every one of us, one by one, becomes a flower to adorn the Pure Land.

Each and every one of us, one by one, becomes a flower to adorn the Pure Land.

梯 實圓(かけはしじつえん)

[法話]

何を見て美しいと感じるかは、人によってそれぞれ違うものですが、「花」は、多くの人が美しいと感じるものの一つでしょう。花の咲く植物は、地球上におよそ20万種もあるそうですから、その中のどんな花が好きなのかも、人によってそれぞれ違うでしょう。毎日通る道端(みちばた)のたんぽぽに(いや)されたり、大切な人からもらった花束(はなたば)のバラがやはり大切な花になったり。一方で、花の値段(ねだん)や希少性(きしょうせい=少なくて珍しいこと)にとらわれることもあります。値段の高い花だから美しい、とても珍しい花だから好きだ、というのは少しさびしい気がします。

ここ数年、朝顔を育てています。日当たりの良すぎる窓にグリーンカーテンを作りたかったのですが、まったく思ったようにはなりません。難しいものです。まだツルも出ないうちに、野生のシカに食べられてしまうこともあります。窓の下の地面がコンクリートなので、植木鉢(うえきばち)で育てています。グリーンカーテンを作るほどには大きくならなくても、花が咲くと(うれ)しいものです。かわいい花を楽しんでおりました。

昨年、コンクリートの隙間(すきま)から、朝顔の芽が2本出てきました。こぼれた種からひとりでに出てきたわけです。そのままにしておいたところ、みるみる大きくなり、大きな葉っぱがたくさん出てきて、大きな花もたくさん咲いて、たった2本で立派なグリーンカーテンとなりました。植木鉢の朝顔もそれなりに成長して花も咲いたのですが、勢いの差は一目瞭然でした。やはりなかなか人間の思い通りにはならないものです。もしかしたら、コンクリートの隙間の先には、私たちの知らない世界が広がっているのかもしれない...。

思い通りにならなくてあれこれ考える時がありますが、それはたいてい時間に余裕がある時です。日常が忙しい時には悩む暇もありません。多くの植物は寒い冬の間、ほとんど活動していないように見えます。しかし、寒さに耐えながら根や(くき)は養分をたくわえ、種は次に芽を出す場所を求めます。人間の目からは見えなくても、確実に春に向けて準備をしているのです。冬の時期の水やりが、次に咲く花に大きく影響する植物もあります。きっと人間にとっても、考える時間は準備であり、いろんなことを吸収するチャンスなのでしょう。自分の足元の地面のことですら、よく知らないのですから。

「一人一人」「一輪一輪」という表現には、他人(まか)せにしてはいけないという厳しさと、他人に頼ってもかまわないという優しさの両方を感じます。ぼんやりしている人には「さあ、目を開いて!」と呼びかけ、エネルギーが切れそうな人には休息を与えてくれると感じます。

「一人一人」と呼びかけられるということは、私たち一人一人に対して、別々に呼びかけられているのだと思います。大勢の中の一人ではなく、ただの一人として。その一人がたくさん集まって、それぞれの生き方で、それぞれの花になります。私が私として、一人一人が生きることで、浄土の世界を飾り続けていくのではないでしょうか。

須貝 暁子(すがい きょうこ)
1978年生まれ。山陽教区第4 組善照寺住職

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎師走に入り、今年も暮れようとしています。年齢も関係していると思いますが、年々時間の経過が早くなっているように感じます。皆さんはどういった一年だったでしょうか。
今年も明るいニュース暗いニュースと様々な出来事がありました。5月に新型コロナが5類感染症となり規制緩和が進みました。コロナの感染がなくなったわけではありませんが、コロナ渦がようやく収束したことに「本当に長かったなぁ」と今更ながら感じる次第です。
世の中の動きも私たち自身も変化していくのですが、「すべての人を救いとってやまない」という阿弥陀さまのご本願はいつの時代も変わりません。どんな時も阿弥陀さまのお慈悲の光の中で生かされていることに感謝してお念仏申したいと思います。
一年間大変お世話になり、ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。

合掌

2023年11月の法話

[11月の法語]

生の依(よ)りどころを与え 死の帰(き)するところを与えていくのが 
南無阿弥陀仏

Namo Amida Butsu is the authentification of receiving life in this world
and going to the Pure Land after death.

金子大栄(かねこだいえい)

[法話]

本来宗教とは、私たちに正しい生き方を指(さ)し示し、正しい死の受容(じゅよう=受け入れること)を明らかにするよう促(うなが)すものだと思います。

ところが現代社会において、宗教は自分の欲望を満足させるための祈(いの)りであったり、自身の不安や困った状況を自分以外の何かに責任転嫁(せきにんてんか=自分が引き受けなければならない任務・責務を、他になすりつけること)して、それらを排除(はいじょ)していこうとするための手段となっているように思われます。

また仏教も、生き方を問うことよりも死後に重きがおかれ、教えの内容よりも儀式や勤行(ごんぎょう=仏前で、一定の時を定めて行う読経・回向など。お勤め)などの形に偏(かたよ)った、本来とは少しちがう伝承(でんしょう)になっているように感じます。それは当然、伝える側の責任が大きいことは言うまでもありません。今こそ仏教、とりわけ浄土真宗が何を伝えてきたのかを確認する必要があります。

ご門主は、伝灯奉告(でんとうほうこく))法要初日(2016年10月1日)に、「念仏者の生き方」と題したご親教(しんきょう=宗派を代表するご門主様のみが語ることのできるご法話のこと)で、親鸞聖人がご門弟に宛(あ)てられたお手紙を現代語で紹介され、私たちの生き方について、
「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚(おろ)かなる無明(むみょう=真理を悟ることができない無知、最も根本的な煩悩)の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。

今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積(さんせき)していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背(そむ)いて生きる私たちの無明煩悩(むみょうぼんのう)にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲(がよく)に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく=煩悩のかたまりである人間)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依(よ)りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。
と、仏法を依りどころとして生きる大切さを述べられました。

私たちは、阿弥陀さまの「すべての生きとし生けるものを救う」というご本願のお心にふれることによって、むさぼり、いかり、おろかさという煩悩に振り回され、自分や自分に縁のある人の幸福や利益のことしか考えられず、自己中心の生き方しかしてこなかった、恥ずかしい自分であることに気がつくのです。

そこから、少しずつ自分中心から仏さまの教えを中心に生きようとする私に変えられていきます。阿弥陀さまの「すべての生きとし生けるものを救う」という願いは、私の生きる依りどころとなるのです。

「すべての生きとし生けるものを救う」というお心は、言い換えれば「四海のうちみな兄弟」(曇鸞大師『往生論註』)ということです。そこには、敵味方という対立もなければ、怨(うら)み憎むというようなことも、自分の気に入らない人びとを差別し排除することもない。すべてはみな、等しく尊いいのち、阿弥陀さまの浄土へと迎(むか)え取られていくいのちとして、死の帰するところが与えられます。

阿弥陀さまのお心を生きる依りどころとして、本当の人となり、そして、やがていのち終えるときには、お浄土へ往生し仏とならせていただく道があります。その道を阿弥陀さまは伝えようとなさったのです。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]金子大栄 1881~1976 明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家

 

2023年10月の法話

[10月の法語]

念仏というのは私に現れた仏の行い

The Nembutsu is the manifestation of the Buddha's salvific working for my sake.

坂東性純(ばんどうしょうじゅん)

[法話]

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要のテーマに「今、いのちがあなたを生きている」とありました。当初、私はテーマに対して何故「今、あなたはそのいのちを生きている」と表現されなかったのか疑問を感じました。

一般的にはいのちの主体は私であり、何事も、「私が」「私は」と受け止められています。しかし、御遠忌テーマは、私ではなく、いのちが主体となって表現されています。御遠忌テーマは、私たちの常識をひっくり返し、改めていのちの真相をとらえなおそうとしたものと思われます。いのちの体は私からではなく、南無阿弥陀仏とよびかけられた如来によって表現されるものでした。私のいのちは私の所有ではなく、阿弥陀(無量寿)なるいのちよりお預かりしているいのちでした。現代ではそうした無量のいのちが見失われ、また、軽んじられているのではないでしょうか。

『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』に、
「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」(『真宗聖典』八八三頁)
とあります。

仏法とはお念仏の生活であります。また、世間とは日常の生活であります。ともすると、私たちは仏法と世間を分類し、分けて考えてしまいます。仏法は仏法、世間は世間と。そのような中で蓮如上人はお念仏をあるじとして、日常のできごとは客人として重ねあわせて受けとめ、仏法を生活の依(よ)り処(どころ)として生きよ、とお示しくださいました。

私たちは日常の生活に重点をおいております。その傍(かたわ)らにお念仏を称(とな)え、世間のできごとに流され、苦しみや悩みを抱(かか)えて生きています。そのため、世間では念仏を称えるかどうかは私の判断です。

蓮如上人は生活の主体はお念仏であり、世間の分別は客体であると教えておられます。したがって、私たちは仏法と世間を分けて考えがちですが、仏法なくして世間もなく、世間なくして仏法もありません。世間の営みを世間たらしめる実相こそが仏法であります。

冒頭に、こちらの法語が挙げられています。
念仏というのは 私に現れた 仏の行い
お念仏は私の口を通して南無阿弥陀仏と称えるのですが、決して私の努力で修する行ではありません。朝から晩まで私の心は煩悩(ぼんのう)によって迷いつづけています。その心に本願のほうから届けられるのが称名念仏(しょうみょうねんぶつ=口に出して称える念仏)であります。

法然上人のお弟子に耳四郎という人がいました。お弟子になる前は、悪の限りを尽くし、人から恐れられていました。何か物がなくなると、常に耳四郎は疑われました。その時、耳四郎は当然のことと受けとめ笑っていたそうです。

しかし、ある時、耳四郎がお念仏を称えていた時、ある者が、「耳四郎、お前のように悪いことをした者は、そのお念仏ではよもや浄土へはゆけまい」と詰(なじ)りました。それを聞いた耳四郎は、「ひとたび、私の口に出てくださったお念仏は、はや、私のものではない。如来さまから戴(いただ)いたお念仏である」と、平然と答えました。

すなわち、念仏とは私の口に発せられる称名と同時に、如来より願われた聞名(もんみょう=南無阿弥陀佛の名号を聞くこと)の行そのものであると知らされています。

伊奈 祐諦(いな ゆうたい)
1946年生まれ。岡崎教区第8組安樂寺前住職

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]坂東性純(1932-2004):真宗大谷派僧侶、仏教学者

 

◎季節のうえでは秋ですが先月は本当に暑い日が続きました。一時に比べ少し気温は低くなりましたが日中の日差しはまだ秋とは言えませんね。(9/30現在)今しばらくは体調に気をつけて過ごしましょう。

合掌

2023年9月の法話

[9月の法語]

「まこと」のひとかけらもない私に 仏さまから差し向けられた「まこと」

The Buddha directs Truth to me,
someone who does not possess even a shard of it.

石田慶和(いしだよしかず)

[法話]

私の古くからの友人Bさんは、今六十八歳。彼は、おじいさん、おばあさん、そしてご両親のお育てで、幼少の頃からお寺参りをしていました。その後進学、就職、結婚と順風満帆(じゅんぷうまんぱん=物事がすべて順調に進行することのたとえ)の生活でしたが、五十代のはじめにお連れ合いの重い病気、ご両親の往生(おうじょう)といったことが続きました。彼は、悲しみは大きかったけれど、すべてお聴聞(ちょうもん=法話、説教など耳を傾けて聞くこと)の中で聞かせてもらった「諸行無常(しょぎょうむじょう=世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ)」のことわり(=物事の筋道。道理)だったと受けとめ、乗り越えてきました。

お連れ合いの病気もほぼ全快しましたが、六十三歳のとき、今度は彼自身が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、一命は取り留めたものの左半身に麻痺(まひ)が残り、歩くには杖(つえ)が必要な体になりました。そんな彼に、今月のことばを読んでもらい感想を求めました。

しばらくの沈黙の後、「自分はまことのひとかけらもない凡夫(ぼんぶ)であるということが今はっきりした。今までのお聴聞の中で凡夫ということについて、聖徳太子や親鸞さまのいくつかのお言葉を聞いてうなずきはしていたけれど、直接に自分とは結びついていなかった。まことのひとかけらくらいは持っていると思っていた。

歩くのが不自由になった頃は、外出するのがいやで家の中ばかりで過ごしていた。そんなとき妻はしきりに外出を勧め、励ましてくれたが、そんな妻に感謝するどころか当たり散らしてばかりいた。ようやく重い腰を上げ、外出するようになると、さまざまな人たちが手伝ってくれる。ありがとうと感謝の気持ちを伝える。しかし、少し慣れてかなりのことが自分でできるようになると、手伝ってくれた方にありがとうとお礼は言うものの、心の中では、少し時間はかかるがこれくらいは自分でできる、もう少し見守ってほしい、と反発している。ときには、余計なお世話だと心の中で叫んでいる自分がいる。ありがとうの言葉と裏腹に、相手を非難している」というような返答でした。

また、随分前に次のようなことを聞きました。その人は、若いときから部落解放運動に熱心に携(たずさ)わり(=ある物事に関係する。従事する)、私たち真宗僧侶に、「今のままの社会でいいですか?親鸞さまの同朋精神(すべての人びとは平等であるという考え方)に立ち返りましょうよ」と、熱く訴えてくださる方でした。その彼があるとき、沈んだ声で「私は人を差別する人間を最低と言ってきたし、自分は人を差別などしないという自負があった。その私が周囲の女性に対して、女のくせに、女だてらになどと女性を蔑視(べっし)することばを投げかけ、傷付けていたのです」と言われました。

お二人は、ご自身の心の底をちゃんと見据(みす)え、言葉にしてくださいました。そして、その仏さまから差し向けられた「まこと」の言葉が私の誤った姿勢を教えてくださいます。

私自身を振りかえってみると、自身の発言や行動を、常に状況や相手の言葉が「そう言わせた。そうさせた」と言い訳ばかりしていたことが、恥ずかしくなります。

差別の現実と向き合い、「仏さまのまこと」をもっと、もっと学んでいきたいと思います。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]石田慶和(1928~)
日本の哲学者、宗教学者。親鸞思想の宗教哲学的解明を研究した。

 

◎今年の猛暑は本当に長いですね。また先月は台風による被害が各地で見られました。地球環境の変化が懸念されます。そんな中、先日お参り先で赤トンボを見かけ虫の音を聞きました。知らないうちに季節は秋に向かっているのだなあと感じた次第です。
とはいえ日中の気温は35℃前後の日が続き(8/31現在)、夏の疲れも出る頃です。何卒ご自愛下さいますようお念じ申し上げます。

合掌

2023年8月の法話

[8月の法語]

われもたすかり 人もたすかるというのが 仏教の教え

Through the Buddha's teaching,
everyone is saved--not only myself, but others as well.

曽我量深(そがりょうじん)

[法話]

「情けは人の為(ため)ならず」ということわざがあります。〝人に情けをかけるという事は、情けがその人だけにとどまらず、回りまわって自分に返ってくるから、人にやさしくしましょう〟という意味だそうです。私にも、そのような考えを持った友人がいます。仕事や家庭や趣味などで良いことがあると、他の人に「幸せのおすそ分け」をするのだそうです。「おすそ分け」ですから、大したものではなく、街頭募金を見かけたら小銭を寄付したり、車を運転しているときは道を譲(ゆず)ったりと些細(ささい=あまり重要ではないさま)な事で、簡単に言えば、ほんの少しだけ人にやさしくするのだそうです。

そんな彼を真似(まね)て、私も初孫が産まれたとき、ある国際ボランティア団体に毎月寄付をするようになりました。私の孫は、戦禍(せんか=戦争による被害)に見舞われることなく、健康状態もよく、今のところ幸せに暮らしています。しかし、外国では、戦禍に見舞われ、栄養失調に苦しんでいる子どもたちがたくさんいます。そういった子どもたちにほんの少しだけやさしくしているわけです。世界中の人々がほんの少しだけやさしくなれば、世の中はもっと良くなるでしょう。

けれども、人がほんの少しだけやさしくなって世の中が良くなったとしても、私たちは本当の意味で救われたり、助かったりするのでしょうか。そもそも、私たちの「救われる」とか「助かる」という事と、仏様の「救い」は同じものなのでしょうか。

曽我先生が言われた「われもたすかり 人もたすかる」という言葉は、「私が助かったから、感謝の気持ちを持って、私の力で他の人も助けてあげよう」というものではありません。よくよく考えると、ほんの少しやさしくなっても、私は他の人を助けるほど偉くもなければ、そんな力はありません。むしろ、仏様の教えを聞けば聞くほど、ろくでもない私に気づきます。調子のいいときは、人にやさしくもっともらしいことを話しますが、いざ何かあれば、人を恨(うら)み、妬(ねた)み、愚痴(ぐち)る。それが私です。そんな私が他の人を救えるでしょうか。

私も仏様のおかげで助かったのだから、他の人もまた仏様のおかげで助かるに違いない。それこそが仏教の教えである。曽我先生はそう言われているのではないでしょうか。

その事に気づいたとき、私たちは、何かしてもらったから何かをするという条件付きの世界から、何も条件の付かない世界に気づくのではないでしょうか。もちろん、人にやさしくすることは、決して悪いことではなくて、良いことです。しかし、私たちのやさしさと仏様のやさしさとは、質も大きさも違うのでしょう。

私は、毎日のようにお念仏を称(とな)えております。お念仏を称えたとき、「私は救われている」とか「わが身が助かっている」という実感はあまりありません。それはたぶん、仏様の「救い」ではなく、自分の「救われる」という物差しで手を合わせ、日々生きているからではないかと思います。教えに我が身が照らされて、私の姿に気づいたとき、仏様の「救い」に手を合わす日々を送れるのではないでしょうか。

磯野 淳(いその じゅん)
1962年生まれ。京都教区山城第1 組新道寺住職

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

[註] 曽我量深(そがりょうじん) : 1875~1971 日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。
伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。

◎今月はお盆です。お盆は正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。浄土真宗では盂蘭盆会(うらぼんえ)のことを歓喜会(かんぎえ=よろこびのつどい)とも申します。故人のご縁によってお盆を迎え、尊いみ教えに出遇うことのできた身のしあわせを喜び、ご先祖に感謝のまことを捧げるのが、真宗門徒のお盆なのです。
(真宗協和会「お盆のしおり」より抜粋)
梅雨明けと同時に非常な猛暑が続いています。(7/31現在)くれぐれも熱中症等にはお気をつけくださいますようお念じ申し上げます。

合掌

2023年7月の法話

[7月の法語]

正しいものに遇(あ)って 正しくない自分を知らされている

When I encounter something that is true and correct,
I come to know that I am not always right.

利井明弘(かがいあきひろ)

[法話]

先日、住職である長男と一杯飲んでいるときのことです。話が得度習礼(とくどしゅらい=僧侶になるための得度式を受けるにあたり、本願寺西山別院において行う十日間の合宿研修)のことになり、彼曰(いわ)く「本願寺で『正信偈(しょうしんげ)』の唱(とな)え方を習ったら、お父さんの唱え癖(ぐせ)がよくわかった」と笑います。そうです、私もずいぶん前に本願寺で唱え方を習ったのですが、長年自分だけで唱えていると、自分流の癖がついてしまっていることに気が付かずにいたのです。ときにはCDなどでお手本を聞いて自分の唱え癖を確認しないといけないなぁ、と反省しきりです。(中略)

私は生まれてから今日まで、両親はじめ、近隣の方がた、学校の先生、一緒に遊んだ友だち、僧侶としてお付き合いのある先輩や友人などの影響を受けながら、またテレビ、ラジオ、新聞などの、多くのメディアから流される情報に囲まれて生きてきました。その中で、自分なりの価値観や社会の常識などを自分の「ものさし」として身に付け、そして自分の「ものさし」を間違いのないもの、正しいものと思い込んでいます。しかも、本当に正しいのかということを点検することもほとんどありません。

「正信偈」には、自分のものさしほど正しいものはないと思い込むことを憍慢(きょうまん=おごり・たかぶり)、その心で人や社会の出来事を判断していくことを邪見(じゃけん=よこしま・はからい)と示されています。

この憍慢と邪見でつくられた「ものさし」は、人と接するときや社会の出来事を見るときに活躍します。

人と接するときには、その人は自分にとって都合のいい人か、よくない人か、好きか嫌いか、付き合って得か損かをはかります。社会の出来事も同様に自分にとって好ましいのか、そうでないかをはかります。

そのうえ、このものさしの目盛りは、その幅がコロコロ変わるのです。自分にとって都合のいい人を見るときには寛大な目盛りとなり、少々のことは許すことができます。反対に都合の良くない人をはかるときには厳しい目盛りとなり、ちょっとしたことも許すことができずに、叱責(しっせき)するということになります。本来「ものさし」の目盛りの幅はどのようなときにでも一定でなければ、「ものさし」としての役割を果たすことはできないのですが......。

常にお聴聞(ちょうもん=法話、説教等を耳を傾けて聞くこと)を重ね、阿弥陀さまの大慈悲心に学ぶということは、阿弥陀さまの「ものさし」に対して自分の「ものさし」がうそかまことかと問うことであり、つまりは正しくない自分を知らされることでもあります。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎蒸し暑い日が続いています。(6/30現在)今年は早い梅雨入り(5/29)でしたが、明けるのはいつごろになるでしょうか。
コロナ渦も影が薄くなり、この夏は各地でお祭り等イベントが再開してにぎやかな季節になりそうです。マスクを外して歩いている人も多くなってきました。ただ体調を崩しやすい時候でもあります。くれぐれもご自愛くださいますようお念じ申し上げます。

合掌

2023年6月の法話

[6月の法語]

信(しん)は 如来(にょらい)の生命(せいめい)なり

Entrusting that arises within me is the salvific working, that is, the life of the Tathagata.

小山法城(こやまほうじょう)

[法話]

 宗教で示される「信」は、一般的に私たちの持つ信仰心と考えることができます。しかし、ここではその「信」が「如来の生命」と示されています。私の「信」が「阿弥陀如来の生命」であるとは、どういうことなのでしょうか。

 この言葉は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が示された「他力の信心」を明らかにしたものです。「他力」とは、「阿弥陀如来の本願にもとづく救いの力」という意味で、「本願」とは、阿弥陀如来の慈悲の願いです。

 浄土真宗の信心とは、「阿弥陀如来の側に私を信じさせるだけの力がある」ことによって、私が「信じずにはいられない」ようになった心です。阿弥陀如来のはたらきのおかげで生じた信ですので、これを「他力の信心」といいます。そこには、決して捨てられることのないという、あたたかな安心(あんじん)が伴っています。

 軒先の下にある石が雨水によって長い期間をかけて穿(うが)たれていく(=穴を空けられる)ように、阿弥陀如来が私たちを救おうとされる活動は、ついに私たちの心に到達してくださいます。私たちの立場からいえば、阿弥陀如来の御心(みこころ)を真剣にお聴聞(ちょうもん)することを通して、阿弥陀如来に対する、頑(かたく)なな疑いの殻(から)が破られていくのです。それは、たとえば学校の先生や親の真心が、ついに子どもの心に届くすがたに似ているといえるでしょう。

信心とは阿弥陀如来のはたらきが、そのまま私たちの心に届いたすがたであり、阿弥陀如来が私たちの心を場として躍動(やくどう)しているすがただといえます。それを「信は如来の生命なり」と表現されているのです。

『月々のことば』(本願寺出版社刊)より抜粋 

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎先月は雨天の中、当寺の春の法要(永代経)ご参詣ありがとうございました。今回は4年ぶりでしたがご寺院様に出勤していただき私を含め6名で勤めさせていただきました。久しぶりで戸惑うこともありましたが無事にお勤めできました。いろんなことが少しずつ以前の状態に戻っていけたらと願います。ありがとうございました。

合掌

2023年5月の法話

[5月の法語]

南無阿弥陀仏とは言葉となった仏なのです

Namo Amida Butsu is the salvific working of the Buddha manifesting itself as words.

安冨信哉(やすとみしんや)

[法話]

「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏なのです」

この言葉は、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。仏さまといえば、木像や絵像をイメージされる方も多いのではないでしょうか。そして仏さまを拝(おが)むときには、木像や絵像に向かって手を合わせます。そのときには、木像や絵像をご安置(あんち)しているお寺の本堂や、家庭のお仏壇の前という場所が必要になります。

私たちが称(とな)える「南無阿弥陀仏」は言葉となった仏さまなのです。言葉となった仏さまは場所を選びません。どこにいても南無阿弥陀仏と称えれば、その大慈悲心にふれ、包まれることができます。

私が、この「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏さまなのです」というフレーズを初めて聞いたのは、ずいぶん前のことです。

私たちの教団は、「形ばかりの僧侶、名ばかりの門徒」から真の僧侶、門徒となろうということを目標にした門信徒会運動。「部落差別をはじめとするあらゆる差別や、非戦平和など社会の問題を課題」として、御同朋(おんどうぼう=阿弥陀さまの前では僧侶も門信徒も「お念仏の教えをともに喜びいただいていく」ともがら、同朋)の社会をめざす同朋運動。この両運動を「基幹運動」と称し推進してきました。現在はその運動の成果をふまえ「御同朋の社会をめざす運動(実践運動)」を推進しています。

その同朋運動の研修会において聞かせていただきました。
「南無阿弥陀仏という言葉になった仏さまから、言葉によるはたらき、つまり救いをいただいている。それなのに私たちは、言葉によって人を傷つけたり、差別していることがあるのではないか。これは言葉の仏さまを裏切っていることになります」
といった内容だったと記憶しています。

それを聞いて、私はお寺の封筒の前面に「ことばのひびきはこころのひびき」という言葉を印刷しました。また布教使資格をいただいて、ご門徒の前でご法話をするようになったとき、言葉は正確に丁寧に使い、聞いてくださる方を傷つけたり、悲しませることがないようにと誓ったことが思い出されます。しかしながら、ときとして本意が伝わらず、いやな思いをなさった方があったことも事実です。言葉の限界、表現の難しさを感じます。そのたびに後悔し反省しています。

私たち人間は、遠い昔に言葉を身につけ、言葉を駆使(くし)してお互いの意思を伝達し合い、コミュニケーションをはかってきました。私たちが社会生活を営んでいくためには言葉は必要不可欠なものです。言葉で相手を褒(ほ)め、たたえることによってお互いが喜びを分かち合うこともあるでしょう。しかし、その言葉が通じ合わないことからお互いが苦しむことも事実です。

過去の身分制社会が作り出した部落差別を引きずり、賤称(せんしょう=相手をさげすんで呼ぶ称)語を使って人として生きる権利を迫害(はくがい)したり、体の欠陥や容姿、仕事を揶揄(やゆ=からかうこと)した言い回しで悲しい思いをさせたりと、乱暴な言葉遣いによって人を苦しめていることがあります。同朋運動の研修会では、悲しい、苦しい思いをした方がたから直接話を聞かせていただき、学び、気付いたことがたくさんありました。

ここでもう一度冒頭の言葉をいただきますと、「南無阿弥陀仏」は、私たちの使っている言葉の持つ善悪や限界を超えた仏のはたらきです。常に称えましょう。称えることによって、私が私という自己自身に目覚めていくことができるのではないでしょうか。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎新緑の季節となりあちらこちらで鮮やかな緑を目にするようになりました。新型コロナも5月8日以降は5類感染症となり様々な制約がなくなります。長い期間でしたが少しずつ元の日常へ戻って行けたらと願います。

合掌

2023年4月の法話

[4月の法語]

仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない

If I do not use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself,
I am unable to see who I really am.

二階堂行邦(にかいどうゆきくに)

[法話]

「鏡」と聞くと、昔よく読んだギリシャ神話の怪物、メドゥーサを思い出します。もともとは美しい乙女でしたが、ある出来事によって、戦いの女神アテナの怒りをかい、恐ろしい姿に変えられてしまいます。

それは、髪の部分が何十匹もの蛇となり、常に彼女の頭部でシュルシュルと舌を出しながらうごめいている怪物の姿です。そして彼女が恐れられたのは、その姿だけではありません。彼女の目を見たものは、恐怖で体が硬直(こうちょく)し、石になってしまうのです。そんな怪物メドゥーサを退治したのは、ペルセウスです。彼は青銅の盾(たて)を鏡のように磨(みが)き上げ、彼女にその盾をかざしたのです。鏡の盾に映る自分の恐ろしい姿を見たメドゥーサは「ぎゃー!」という断末魔(だんまつま=息を引き取るまぎわ。臨終)の叫びをあげ、彼女自身も石になってしまったというお話です。ギリシャ神話は登場人物(人物といっても、神や怪物になるわけですが)が限定されていて、どんな物語にも、知っている人物が登場します。お経でも同じ菩薩さまやお弟子さんたちが登場しますが、これらは私にとって物語を楽しむひとつのポイントであったりします。

さて、この法語「仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない」ですが、「仏法の鏡」とはどういうものでしょうか。鏡は光の反射によって、自分の姿を映(うつ)すものです。仏法の鏡ですから、それは仏さまの光によって私の内面が隅々(すみずみ)まで照らし出されるということです。ただ、それを覗(のぞ)き込んでしまったら、私もまたメドゥーサのように自分の恐ろしい姿に「ぎゃー!」と叫んでしまうことになるでしょう。だから、鏡の前に立つことすら怖気(おじけ)づいている自分がいます。

温暖化を止めなくては、と思いながら車に乗る私。命をいただいている、といいながら食べ物を廃棄(はいき=不用なものとして捨てること)する私。難民の人たちを受け入れなくては、と考えても自宅の余った部屋を提供できない私。施設の母親が寂しいだろう、と思いながら面会に行かない私。生き方には様々な選択肢がある、といいながら自分の子どもにはそれを許さない私。隠しているつもりの恨(うら)みや妬(ねた)みの心も仏法の鏡にはくっきりと映し出されるでしょう。とにかく私は自己中心で成り立っているはずです。そんな自分をありありと見つめるのは怖(こわ)いのです。

親鸞聖人がほんとうにすごいお方だと思った和讃(わさん)を紹介したいと思います。最晩年に近い、88歳に書かれた「愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」の一首です。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
(『真宗聖典』五〇八頁)

「わたしは悪い本性(ほんしょう)を断ち切ることが未(いま)だできません。その心は蛇やさそりのように恐ろしいのです。良い行いをしているようでも、そこには必ず自分の見栄(みえ)やおごりが含まれているので、それはにせものの行いというしかないでしょう」と詠(うた)われています。

赤裸々(せきらら=包み隠さないこと。むき出しであること。また、そのさま)に吐露(とろ=心に思っていることを、隠さずうちあけること)された宗祖(=親鸞聖人)のこの告白は、仏法の鏡の前に生涯(しょうがい)立ち続けたお姿を想像させます。阿弥陀様はそんな衆生(しゅじょう)をこそ救ってくださるのに、鏡の前で目を開けることができない私は、まだまだ本当の自分に出遇(であ)えていないということになるのでしょう。だからこそ仏法の鏡の前に立てと、阿弥陀様はすすめてくださるのです。

上本 賀代子(うえもと かよこ)
1961年生まれ。大阪教区第20組安樂寺前坊守

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎寒い日々が続きましたが、ようやく春らしくなってまいりました。今年は桜の開花時期も早かったようで大阪ではほぼ満開となっています。(3/31現在)
新学期、新年度に向けて気持ちのよいスタートが切れればいいですね。

合掌

2023年3月の法話

[3月の法語]

こころにじごくがあるよ ひにちまいにち ほのをがもゑる

I have hell within my heart, and all day every day, the flames burn fiercely there.

浅原才市

[法話]

私たちは、いつまでも若々しく、健康で幸せな人生を送りたいと思っています。健康に気をつけ、お金も蓄(たくわ)え、子どもにも勉強させ、安定した将来のためにと努力しています。しかし、人生には予期せぬ出来事、思い通りにはいかないことがたびたび起こります。

ここ数年、新型コロナウイルスの脅威(きょうい)の中で全世界が恐怖を味わっています。また、東日本大震災や熊本大地震、毎年のように続く豪雨災害。いつ起こるかわからない自然の脅威には全く無力な私たちです。

また、「平和」の願いに反して、民族間の対立、信ずる宗教の違いや思想の違いからの対立、人間同士の反目(はんもく)が、テロや戦争を引き起こします。ロシアのウクライナ侵攻(しんこう)は記憶に新しい事態です。まさに何が起こるかわからないのが世の中です。そんな中、私たちはどのような生き方をしているのかをしっかり問わねばなりません。

『歎異抄(たんにしょう)』に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『註釈版聖典』八四四頁)
(人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである)とありますが、これが私たちの本来の姿です。

私にとって都合の良い縁に恵まれると、法律や道徳を守り、世間体を気にして善人らしく振る舞ってはいますが、いったん予期せぬ都合の悪い縁に出あったり、思い通りにはいかないことがあると、たちまち様子が変わり、恐ろしいことを体でも心でも起こしてしまう弱い存在が私たちです。

「売り言葉に買い言葉」という言葉があるように、相手の予想もしなかった言葉に激高(げきこう)し、些細(ささい)なことから大げんかになり、そして暴力にまで繋(つな)がってしまうことは、お互いの人生の中で経験したことがあるのではないでしょうか。

最初からわが子を虐待(ぎゃくたい)しようと思う親はいないでしょう。要因の一つに「子育てが思い通りにいかない」ということがあり、虐待という事態を引き起こします。また、お金に困った状態になると、「こんなはずではなかった」とさまざまな犯罪を引き起こしてしまうのではないでしょうか。

罵声(ばせい)が飛び交(か)い暴力が日常茶飯事となり、虐待や犯罪が頻繁(ひんぱん)に起こる状況を「じごく(地獄)」というならば、それを引き起こす原因は私の心の弱さにあると言わざるを得ません。

阿弥陀さまのご本願は、そういう弱い存在である私たちのために建てられました。

「どうか何が起こっても不思議ではないのが世の中だと知っておくれ。またその中で何をしでかすかわからないのが自分だと気づいておくれ」
と喚(よ)びかけていてくださいます。そのような阿弥陀さまの喚びかけ、すなわちご本願を、心に刻んで生きていきたいと、私は思います。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

[註]
(今月の法語)「=心に地獄があるよ 日にち毎日 炎が燃える」
浅原才市(あさはらさいいち): 1850~1937 浄土真宗の妙好人の一人。石見(いわみ 今の島根県)の才市と呼ばれる。

 

◎境内の梅の花が咲き始めました。まだまだ肌寒い日が続いていますが少しずつ春は近づいているようです。先月トルコ・シリアで大地震が発生し51,000人以上(2月28日現在)の尊い人命が失われました。心よりお悔やみ申し上げます。
今月のご法話では、文中にありますように「いつ起こるかわからない自然の脅威」であり「何が起こるかわからないのが世の中」です。平和で落ち着いた状況下では秩序を保っていても状況が悪くなければ本性が現れる弱い存在、それが私なのだと気づかせて下さるのが阿弥陀如来の本願力だとおっしゃっておられます。

合掌