松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2025年2月の法話

[2月の法語]

名号(みょうごう)」は私たちの地獄(じごく)(ひび)阿弥陀(あみだ)のいのち

The Name, Namu Amida Butsu, is the working of Amida that reverberates   in the hell of my own delusion.

高 史明(コ・サミョン)

[法話]

 この法語は、高史明先生のおことばです。一読して、広さと明晰(めいせき)さと確かさを感じます。それはこのおことばの中に、私とは何か、私を救うものは何か、どのように私を救うのかという、人間の救いの根本となる真実が説かれているからではないかと思われます。

 私とは何か。「私たちの地獄に響く」とありますように、私という存在の一番奥深いところにあるものが「地獄」と言われています。

 源信(げんしん 942~1017平安時代中期の天台宗の僧、浄土真宗七高僧の一人)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』に八大地獄が説かれています。敵意をいだいて傷つけ合う等活(とうかつ)地獄。焼けた斧(おの)で刻(きざ)まれる黒縄(こくじょう)地獄などが克明(こくめい)に説かれ、八番目がいちばん底の阿鼻(あび)地獄。その苦しみは第一から七までの苦しみを合わせた千倍もあるのだと。

 何を表しているのでしょうか。阿鼻地獄の苦しみは、賜(たまわ)ったご恩を忘れて生きる「五逆(ごぎゃく)」や、仏の大慈悲に背(そむ)き謗(そし)る「謗法(ぼうほう)」の者が受ける苦しみだと言われます。

 仏様は私たちを「五逆謗法」の者だと明かされました。これを生み出しているのが無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)です。高史明先生は、このおことばの出拠(でどころ)である『悲の海は深く』(東本願寺出版)の中で、仏を忘れ煩悩で自己中心的に生きることの誤りを、深い悲しみと熱い願いの中で指摘されています。

 この私たちを救おうと立ち上がられたのが仏様なのです。「阿弥陀のいのち」と表されています。無 量無辺(むりょうむへん=限りないほど広々としていること)の真実です。その真実は動かない真実ではなく、迷い苦しむ私たちに向けて動き出します。そして私たちにはたらきかけ、救いを成立させるのです。

 私は仏教に疑問を持っていましたが、学生時代に偶々(たまたま)の因縁で真宗の教えを聞くようになりました。お聞きしてよかったとつくづく思ったことは、阿弥陀は動かないものではなく、自ら私のために立ち上がり、歩み、はたらきかけてくださっていることをお聞きしたことです。自己中心的に生きる者としては考えられないことです。このことを知って仏教に対する私の気持ちはがらりと変わりました。

 阿弥陀は南無阿弥陀仏という名号となって私を喚(よ)ぶ。私のほうから仏に向けて「お願いします」ではなく、阿弥陀のほうが、これがあなたを救う私(阿弥陀)という真実のすべてなのだよ。それ「南無阿弥陀仏」で表しているのだよと喚(よ)びかけてくださるのです。

 地獄について親鸞聖人が説かれる教えの一つに阿闍世王(あじゃせおう)の物語があります。阿闍世は父を殺してこれを正当化しますが、罪を自覚し始め苦しみます。大臣から釈尊の教えを聞くことを勧められ、途中乗って行く象から落ちそうになり、落ちれば地獄に堕(お)ちるのではと恐れます。

 その阿闍世が釈尊に会い、丁寧(ていねい)な教えを聞いて信心を得た時、地獄を恐れるどころか、国王として迷惑をかけた国民を救うためには阿鼻地獄の中におかれてもかまわない旨(むね)を釈尊に申し上げるのです。

 南無阿弥陀仏は私たちの地獄に向けてはたらき、地獄を転回軸にして新たな真のいのちを生み出してくださるのです。

岡本 英夫(おかもと ひでお)
1947年生まれ。京都教区石東組德泉寺住職

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[註]「名号」:仏・菩薩の名、ここでは南無阿弥陀仏の六字のこと。

◎年が明けてもう一月が経ちました。先月は少し暖かい日が続くこともありましたがまた寒さが戻ってきたように感じます。暦の上では春になりますがまだまだ寒さが続きそうです。何卒ご自愛くださいますようお念じ申し上げます。

合掌