2017年12月の法話
[12月の法語] 弥陀の回向(えこう)の御名(みな)なれば 功徳(くどく)は十方(じっぽう)にみちたまう Since the Name is directed by Amida, its virtues fill the ten quarters. |
[法話]
「チクショー」。悔(くや)しがっている人が、口にするのをしばしば見かけます。漢字で書けば「畜生」。では、そもそも、どういう意味かと聞かれれば、だいたい獣や鳥をイメージしませんか。
ところで、仏教の持つ生命観では、私たちは六道(天・人(にん)・阿修羅(あしゅら)・畜生・餓鬼(がき)・地獄)という世界をグルグルと生まれ変わり続けていると考えます。畜生界とは下から三番目で、私たち人間より下です。このことについて、『涅槃経(ねはんぎょう)』に興味深いお示しがあります。
慚(ざん)は人(にん)に羞(は)づ、愧(ぎ)は天に羞づ。これを慚愧(ざんぎ)と名づく。無慚愧(むざんぎ)は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
(「慚」とは「人に対して恥じること」であり、「愧」とは「天に対して恥じること」です。これを「慚愧」といいます。「無慚愧(=慚愧の心の無いもの)」は「人」とは呼ばず、「畜生」と呼びます。)(『註釈版聖典』二七五頁)
つまり慚愧とは、自分の罪を人に対し、あるいは天(ここでは仏陀や菩薩の意味)に対して、こころから恥じることであり、人間か畜生かを分けるのは、人間か動物かではなく、慚愧があるかないかだというのです。大変に考えさせられるお言葉ですね。
2017年11月の法話
[11月の法語] 信心の智慧(ちえ)にいりてこそ 仏恩(ぶっとん)報(ほう)ずる身とはなれ It is by entering the wisdom of the entrusting heart that we become person who respond in gratitude to the Buddha's benevolence. |
[法話]
聞法(=仏法を聴聞すること)友だちの女性Yさんの話です。
―― 用件があって病院勤務の友人の職場を訪ねると、あいにく非番で、「じゃあ、自宅へ行くから電話番号を教えて」と頼むと、「規則で教えられない」と断られ、カッとして「友人なのに何て冷たい職場...」と激しく言い争ったあげく、番号を問い合わせで調べ、友人を訪ねた帰り際、「さっき病院の受付でポンポン言っちゃったけど、悪かったわ。ごめんなさいと言っておいてね」と伝え、いくらか心が納(おさ)まった。やり合った後、「私の頭が高かったかな」と、日頃の聞法から、自分の行いを振り返らされた。聞法すれば、何より自分本位な偏(かたよ)り、執(とら)われが知らされ、見えてくる。「あ、またやっていた」と、頭の高さに気づかされ、自分の不明(ふめい=才知の足りないこと。事理に暗いこと。識見のないこと)が破られる。