2015年1月の法話
[1月の法語] 称(とな)えるままが つねに御本願(ごほんがん)の みこころを聞くことになる
香樹院 徳龍 梯實圓『わかりやすい名言名句 妙好人のことば』より |
[法話]
この言葉の出典は、よく知られた香樹院徳龍(こうじゅいんとくりゅう)師(1772〜1858)の『香樹院講師語録』の中からです。
称えさせてくださるお方がなくて、この罪業(ざいごう)のわが身が、どうして仏の御名(みな)を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のためにご成就(じょうじゅ=なしとげること)あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまの御心(みこころ)を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願(=阿弥陀如来が過去世において立てた衆生救済の誓い)のみこころ(御心)を聞くことになるのではないか。
今年の法話(2015年)
[今年の法語] 智慧(ちえ)・慈悲(じひ)のはたらき そのものが 「仏(ぶつ)」なのです
坂東 性純 『はたらく仏さま』 東京教務所より |
[法話]
キリスト教の信仰では「神は愛」という。
仏教では「仏心というは大慈悲これなり」 (真宗聖典106頁)
と、「仏の慈悲」といい、仏心の涙・悲しみが感じられる。仏の仏たる所以(ゆえん=理由)は、この「悲」の一字にあるのではないだろうか。その悲とは、われら人間の生活現象を見いだされた時の、黙視できない驚きの情であって、それは「悲しみの智慧」といってもいいだろう。「如来大悲の恩徳(おんどく)は」(恩徳讃(おんどくさん))というが、「如来大慈」とはいわない。かつては、阿弥陀如来を「大悲の親さま」と呼び習う地域もあったくらいである。この「悲しみの智慧」の深さにこそ、仏心の本願が表現されていると思う。