松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

今年の法話(2015年)

[今年の法語]

智慧(ちえ)・慈悲(じひ)のはたらき そのものが 「仏(ぶつ)」なのです

 

坂東 性純 『はたらく仏さま』 東京教務所より

[法話]

キリスト教の信仰では「神は愛」という。

 

 仏教では「仏心というは大慈悲これなり」 (真宗聖典106頁)

と、「仏の慈悲」といい、仏心の涙・悲しみが感じられる。仏の仏たる所以(ゆえん=理由)は、この「悲」の一字にあるのではないだろうか。その悲とは、われら人間の生活現象を見いだされた時の、黙視できない驚きの情であって、それは「悲しみの智慧」といってもいいだろう。「如来大悲の恩徳(おんどく)は」(恩徳讃(おんどくさん))というが、「如来大慈」とはいわない。かつては、阿弥陀如来を「大悲の親さま」と呼び習う地域もあったくらいである。この「悲しみの智慧」の深さにこそ、仏心の本願が表現されていると思う。

 

「悲愛」という語がある。親鸞聖人の念仏の深さに感動された井上洋治神父の造語である。人知の愚かさを悲しむといっても、ただの冷たい批判の眼ではなく、むしろ、その悲しむべき事実を、どこまでも背負っていこうとする、悲願の眼と知らされる語である。

 

『仏説無量寿経』(注1)には、「群生(ぐんじょう=すべての生きとし生けるもの、一切衆生)を荷負(におい)してこれを重担(じゅうたん=重い責任、重い任務)とす」 (真宗聖典6頁)とある。

 

たとえ荷負している肩が砕けようとも、決して見捨てはせぬという、仏の覚悟の程が表現されている。

 

また、蓮如(れんにょ)上人(1415~1499)(注2)『御 文(おふみ)』(注3)に再三、「摂取不捨(せっしゅふしゃ=おさめとりて捨てたまわず)」の一句を引文し、三帖目四通(真宗聖典800頁)では、

「摂取の光益(こうやく)(まよいのすがたを照らし出す智慧光のはたらき)」「不捨の誓益(せいやく)(どのようになろうとも、見捨てはせぬという誓い)」

を示され、凡夫と運命を共にすると誓われた本願大悲の深さに注目せよと、すすめられている。

まさしく、智慧と慈悲のはたらきそのものが、われらがための仏さまであった。病める人知の病根を断ち、生きるすこやかさを回復させようと志(こころざ)されてのはたらきなのだから、安直な同情や親切心ではない。その智慧・慈悲の情熱に思いを馳(は) せれば、仏とは、どこか遠くにおられる尊い方と考えていたことが、全くの見当違いだったと知らされる。言葉の世界に生を受けたわれらのために、仏の形を捨て、「南無阿弥陀仏」という言葉になったのだ。念仏もうす私の中に入り、私を目覚ますはたらきとなってくださる。言葉の世界にありながら、言葉で惑い、苦悩しているわれらの救済を悲願されたからこその教化活動方針だといったら過言だろうか。

 

言葉となった仏のはたらきを「名号(みょうごう)」という。名号六字も南無阿弥陀仏、称名念仏も南無阿弥陀仏。しかし、名号と念仏の違いをおさえておかなければ、念仏もうしても絵空事(えそらごと=現実にはあり得ないこと。うそ)になりかねない。「名号」は、仏から私にさし向けての問いかけ、語りかけである。そのはたらきかけに呼びさまされて、「本当に、おっしゃるとおりの私でした」と気づかされた時の、お返事もうす南無阿弥陀仏を「念仏」という。ここには応答の関係がある。

 

それも、仏法聴聞してこそではないか。「聴」は、真意いずこにありやと聴く、姿勢の真剣さ。「聞」は、私の魂に響き、聞こえたという文字。ただ、聴いたからといってすぐに聞こえてくるとは限らない。生活の中で、ハッと思い当たり、新たに聞こえてくることがある。

近田昭夫(ちかだあきお)

 1931年生まれ。東京都在住。東京教区顯真寺前住職。

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

 

(注1)浄土三部経の一つ。阿弥陀仏の四十八願と極楽の様子および極楽往生の方法を説いたもの。大無量寿経。大経。

 

(注2)室町時代、浄土真宗中興の祖。本願寺8世。比叡山衆徒の襲撃に遭い、

京都東山大谷を出て1471年(文明3)越前吉崎に赴き、北陸地方を教化。

さらに山科・石山に本願寺を建立、本願寺を真宗を代表する強大な宗門に

成長させた。

 

(注3)蓮如上人が浄土真宗の教義を平易にしたためて門徒に与えた書簡を編んだもの。5帖80通より成る。大谷派での呼称で、本願寺派では「御文章(ごぶんしょう)」と称する。