松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2015年1月の法話

[1月の法語]

(とな)えるままが つねに御本願(ごほんがん)の みこころを聞くことになる

 

香樹院 徳龍

 梯實圓『わかりやすい名言名句 妙好人のことば』より

[法話]

この言葉の出典は、よく知られた香樹院徳龍(こうじゅいんとくりゅう)師(1772〜1858)の『香樹院講師語録』の中からです。

 

称えさせてくださるお方がなくて、この罪業(ざいごう)のわが身が、どうして仏の御名(みな)を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のためにご成就(じょうじゅ=なしとげること)あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまの御心(みこころ)を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願(=阿弥陀如来が過去世において立てた衆生救済の誓い)のみこころ(御心)を聞くことになるのではないか。

 

私がこの文章にお遇(あ)いしたのは、30年以上前のこと。私はそれをノートに書き写し、保管していました。さらに、ノートには、続けて次のように師のエピソードを記していました。

 

Q、ご法話のない時はどうすればいいでしょうか。

 A、お聖教(しょうぎょう=経典))を読める人は、常にお聖教を拝見しなされ、それが聞法じゃ。世間のことにかかわって、お聖教を拝見できない時は、口に南無阿弥陀仏と称えなされ、これまた法を聞くことじゃ。信をうるご縁は、聞思(もんし=聞き、そして考えること)にかぎる。

 

Q、わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことでしょうか。わが称えて、わが声を聞くことでございますか。

 A、何を言うか、わが称える念仏というものがどこにある。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができようか。称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそも南無阿弥陀仏を如来さまは、何のためにご成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみこころを思えば、これがすなわち称えるままが、つねにご本願のみこころを聞くことになるのではないか。

......そうであったか。「重誓偈(じゅうせいげ)」に「われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚(しょうがく)を成らじ(=私が仏となったとき、私の名声は十方世界にとどろくだろう。名声の届かぬところがもしあるならば誓って仏とはならない。)」と誓われたのは、このこころであったか。いま私に名号を称えさせて、聞かしめておられるのは、必ずたすける阿弥陀仏のいますことを信ぜしめるおこころであったのだ。

そのあとに、「念仏相続(=念仏の教えを引き継ぐ)するひとは、朝な朝な仏と共に起き、夕な夕な仏をいだいて眠る力強き人である」と。さらに、大蔵経(だいぞうきょう)(注1)を収めた輪蔵(転輪蔵)(注2)を創始した傳大士(ふだいし)(497〜569)(注3)の「繊豪(せんごう=極めてわずかなこと))も相離れず、身と影と相似(あいに)たるが如し、仏のゆくところを識(し)らんとおもえば、ただ、この語声(お念仏の声)これなり」という言葉が添えてありました。

 

古いノートを読み返しながら、「声に姿は無けれども、声のまんまが仏なり、仏は声のお六字と、姿をかえて我にくる」とおっしゃったある和上(わじょう=和尚)のおこころをしのばせていただきました。

藤実無極(ふじみむごく) 

 本願寺派布教使、滋賀県彦根市報恩寺住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

(注1)  仏教聖典の総称。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびそれらの注釈書を網羅した叢書。一切経。蔵経。

(注2)  仏堂の中心に軸を立て8面の経巻棚を設け、これに大蔵経を納め、自由に回転する装置のもの。中国南北朝の傅大士(ふだいし)が始めたと伝える。

(注3)  中国南北朝時代の居士。転輪蔵の創始者。本名、傅翕(ふきゅう)。善慧大士・東陽大士とも称。斉の東陽(浙江義烏)の人。武帝に召されて経を講じた。寺院の経蔵中にその像を安置し、俗に笑仏(わらいぼとけ)という

 

◎  あけましておめでとうございます。旧年中は何かとお世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 合掌