松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

2020年1月アーカイブ

2020年1月の法話

[1月の法語]

人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくて みな光る

While men and plants and insects all differ,

the Buddha's inner light shines forth in all.

榎本 栄一(えのもと えいいち)

[法話]

 元号が平成から令和に変わり一時が過ぎました。令和には「人びとが美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」、「一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる」という願いがあるそうです。

 

 さて、私たちはこの願いに対してどのように生きていくのでしょうか。歴史を振り返ると、聖徳太子(しょうとくたいし)が十七条憲法の第一条に「和(やわ)らかなるをもって貴(とうと)しとし、忤(さか)うること無きを宗(むね)とせよ(=お互いの心が和らぎ、協力し合うことが尊いことでありむやみにこれにさからう(反抗)することのないようにしなさい。それが根本的な態度であるべきである。)」(真宗聖典九六三頁)と定めたように、私たちはいつの時代も「和」を求めているように思います。しかし、いつの時代も貴ばれ求められているということは、それほどに「和」が実現困難なものであるともいえます。それは私たちが思う「和」とは、「我」、つまり自分の都合が出発点となっているからに他なりません。不思議なもので、周りの人たちと足並みを揃(そろ)えている時にそれを乱す人がいると、その人は即座に攻撃・排除の対象になります。和を求める心の裏には、私の和を乱したくないという自分の都合が働いているのでしょう。だからこそ、自分の都合が前提にある和は、争いの原因にもなっていきます。そこには、自分の和こそ正しいとして、それをかえりみることがない愚(おろ)かさがあるのではないでしょうか。和を求める私たちは、その根にある我の愚かさに気づきません。和であっても争いであっても、どちらも自分の都合に縛(しば)られているのです。この私たちの都合が、奥深くにある真の「和」を見えなくしているのでしょう。では、真の「和」とはどのようなものなのでしょうか。

 

 釈尊(しゃくそん=迦牟尼世(しゃかむにせそん)の略、釈迦牟尼(お釈迦様)の尊称)は、誕生してすぐに花園の中を七歩歩かれ、右手を天に、左手を地に指差して「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と宣言されました。これは、六道(ろくどう)(※)という我の分別(ふんべつ)を超えた先に開かれる「和」の世界を示したものといえるでしょう。私たちはどこまでいっても自分の都合から逃れることはできません。だからこそ、我を根拠にするのでなく、宗教的根拠に立つものでなくてはならないのです。唯我独尊とは、そのような自分の都合が破られた先にある、人間としての尊厳と自分を生きるいのちの尊さの発見といえるでしょう。それは、自分が一番と誇(ほこ)ることではなく、自分も他人も草木も虫も等しく通じるいのちの尊さに呼び覚まされた、頭の上げようのない自己発見の驚きと喜びを表現しています。

 

一一のはなのなかよりは

三十六百千億の(※※

光明(こうみょう)てらしてほがらかに

 いたらぬところはさらになし

(一輪一輪の蓮の華の中からは、三十六百千億(=無数)の光明が放たれて、朗(ほが)らかに、どこまでもとどかないところはさらさら無いのであります。)

(「浄土和讃」真宗聖典四八二頁)

 

 青色は青く白色は白く、大きいものは大きく小さいものは小さく、それぞれの華が光り輝くように咲き誇りお互いに照らし合う花園の世界、それはまさにいのちがすべて友達だという世界ではないでしょうか。そのような自立と連帯が確立された世界こそ、我を挟(はさ)む余地が全くないほど広大な真の「和」といえるのでしょう。

 香月 拓(かつき たく)

1980年生まれ。仁愛女子短期大学准教授。 福井教区永臨寺衆徒。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

(※)「六道」:人間が善悪の業(ごう=行為)によっておもむき住む六つの迷界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天。この六道の間を生まれかわり死にかわりして、迷いの生をつづけることを「六道輪廻(ろくどうりんね)」という。

(※※)「三十六百千億の」:(極楽)浄土の蓮の華には百千億の花びらがあり、その花びらに青・白・玄(くろ)・黄・朱・紫の六つの光があって相互に照らしあうから六×六=三十六の百千億の光となる。

houwa202001

今年の法話(2020年)

[今年の法語]

悲しみの 深さのなかに 真のよろこびがある

Within the depths of sorrow there is true joy.

瓜生津隆真(うりゅうづ りゅうしん)

[法話]

 お母さんは突然亡くなった。弘子の3歳のお誕生日から年末年始と、楽しい日々がまだまだずっと続くように思えた1月8日。博多にはめずらしい積雪の日のこと。早朝、お父さんを勤め先へ送り出して、一緒におでかけする予定だったのに、お母さんは「ちょっと気分が悪か」とお布団に横になったきり、もう二度と動くことはなかった。突然の脳内出血。即死状態だったそうだ。当時の弘子にはまだ死ということがわからなかった。ただじっと、お母さんが動くのを枕元で待っていた。

 

 そのうちに喉(のど)が渇(かわ)いてきた。何か飲みたいとお母さんを揺(ゆ)り動かしたが、まったく動く気配(けはい)がない。流しの蛇口(じゃぐち)も弘子の背丈(せたけ)では手が届かない。周(まわ)りを見渡すとちゃぶ台に水差しがあった。「お母さんも飲むかなあ」コップに移してまず自分が飲んだ。もう一杯お母さんの分も入れた。「入れたよ」とお布団を引っ張ったが動かない。やがてお腹も空いてきたけど、見えるところに食べるものは何もなかった。

 

 朝起きる。用を足す。顔を洗う。お着替えをする。ご飯を食べる。おでかけする。遊ぶ。ご本を読む。お片付けをする。お風呂を焚(た)く。お布団に入る。寝る。すべてがお母さんと一緒。あたりまえのように過ぎていた弘子の日常は、昭和十四年一月八日で突然止まってしまった。

 

 弘子は、佐賀に住む祖父母の家で暮らすことになった。祖父母はとても優しく、弘子を大切にしてくれた。

  「お母さんは仏さまになんしゃったけん、もう見たり触(さわ)ったりはできんばってん、弘子の中にはちゃんと仏さまでおってくださる。お母さんの弘子を呼ぶ声ば覚えとうね? その声ば思い出してんごらん。いつでも弘子と一緒やけんね」

  お父さんと離れさびしかったが、心の中でお母さんがいつも一緒と思うと、温かい気持ちになることができた。

 

 祖父母は、人さまから何か物をいただいたときは、いつも必ずお仏壇にお供えをした。

  「まあ、こげん良かもんばくださって、さっそくお供(そな)えさせてもらいます」

  仏さまにありがとうと手を合わせながら、祖父はいつも、「弘子んお母さんにありがとうば言えんかったけんね、しっかりありがとうば言おうね」と、手を合わせていた。弘子も祖母も一緒に手を合わせた。

 

 手を合わせる生活を大切にする中で、弘子はやがて、お母さんが一緒にいてくれたことが、あたりまえのことではなかったんだと気づかされた。お父さんがいてくれることも、祖父母がいてくれることも、近所の人、友達がいてくれることも、弘子を取り囲むご縁は、すべて感謝すべきことばかり。それ以来「ありがとう」が、自分の人生をよろこびへと変えてくれる言葉になった。

 

 弘子にとってお母さんが死んだことは、つらく悲しい出来事に変わりはない。けれどお母さんは仏さまとなって、人生で本当によろこぶべきことが何かを教えてくれた。

  これを一生大切にしようと思う弘子だった。

荻 隆宣(おぎ りゅうせん)

 浄土真宗本願寺派布教使、仏教青年連盟指導講師、

グラフィックデザイナー、山口県長門市浄土寺住職。

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

本年(令和2年)の法語カレンダー(真宗教団連合)のテーマは「わたしの歩み」ということです。これまでに掲載されてきたご法語の中から、お念仏を称え、人生を生きぬかれた先師のお言葉を選定されました。日々の生活の中で味わいながら、共々にお念仏を申し歩んでまいりましょう。

hougo2020