2014年11月の法話
[11月の法語] 衆生に かけられた大悲は 無倦(むけん)である 廣瀬 杲(ひろせ たかし) 『宿業と大悲』(法蔵館)より |
[法話]
法語の「無倦(むけん)」という言葉は、真宗門徒にとって、
我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
(我また、かの摂取(せっしゅ)の中にあれども、煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲倦(あ)きことなく、常に我を照したまう、といえり)
(=私もまた阿弥陀如来のすべてを覆い尽くす光の中に照らされているのですが、煩悩に目をさえぎられてその光を見ることができないのです。しかし、阿弥陀如来の大慈悲はあくことなく常に私を照らしているのです。)
(『教行信証』行巻 真宗聖典207頁)
という『正信偈(しょうしんげ)』の一節を通して身近なものです。如来が衆生を大悲の心をもってみそなわし摂(おさ)め取る、そのはたらきを明らかにするのが「無倦」という言葉です。親鸞聖人は源信僧都(げんしんそうず)の教えによって、
「大悲無倦(だいひむけん)」というは、大慈大悲の御(おん)めぐみものうきことましまさずともうすなり。
(『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』真宗聖典525頁)
と言われます。「ものうきことましまさず(=飽きることがない。見捨てることがない。)」、それは衆生のいかなる在り方もえらばず、また衆生のいかなる状況をも貫(つらぬ)いて、たえず衆生に浄土に生まれよと願い、よびかけてやまない、如来の〝いのち〟を明らかにする言葉です。
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