2026年1月の法話
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[1月の法語] |
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み教えによって自分のありのままの相が知らされるのです |
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The teachings show us a way to see ourselves in a true light, as we really are. |
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藤田 徹文(ふじたてつぶん) |
[法話]
この法語は、藤田徹文著『はじめて仏教を聞く人のための13章』(本願寺出版社)の「信心」という章に記された言葉です。
藤田師は、「今の若さも、健康も、生命も、確かなものではありません」、「信用できないものを信用できると思いあやまって、自分に固執(こしゅう=自分の意見などをかたく主張してまげないこと)して、結局、自己と人生の方向を見失っているのが私たちではないでしょうか」と述べられています。そして、仏の教えによって、普段、頼りにならないものを頼りにしている「ありのままの自分」があきらかになり、さらには「本当に確かなものは「どんなことがあっても、あなたを見捨てることのない私がいます」と呼びつづけてくださる阿弥陀如来であったということが審らか(=物事の細かい点まで詳しく、はっきりとわかる様子)になる」と記されています。
私はこの法語と文章を読んで、中国の善導大師の言葉を思い出しました。
経教はこれを喩うるに鏡のごとし、しばしば読み、しばしば尋ぬれば智慧を開発す。
(『観経疏』『真宗聖教全書』第一巻493頁)
これは「仏の教えは鏡のようである。しばしば読んで、しばしば尋ねていくと、智慧を開き発す」と、仏の教えが鏡として喩えられ、そして、その鏡によって仏の智慧の眼が私の上に開かれてくるということです。
み教えの鏡によって映し出されるのは、自分自身の心の相です。それは、世間の価値観と自分中心の思いとで、どこまでも偏った見方で人や物事を受けとめてしまう私の相です。そして、思い通りにならない現実まで、どうにかして自分の思いどおりにしようともがき苦しんでいる、そのような無明(むみょう=道理に暗い)の私の相があきらかに知らされるということでしょう。
私は以前、高齢者施設で相談員をしていました。たくさんの人生の先輩方と日々を共にする中で、さまざまなことを学ばせていただきました。その一つは、私たちは人生の終わりが近づくにつれて「自分の人生を、どう受けとめていけばよいのか」という問いが、折に触れて湧き起こってくるということです。なかには、人生をどうしても否定的にしか受けとめられないという方も、少なからずいらっしゃいました。
私たちの人生は、自分の思いや計だけではとても受けとめきれないような様々な出来事が起こります。
仏の教えの鏡によって、私に開き発る智慧の眼は、「逃げ出したくなるような病気も、老いも、つらい様々な出来事も、すべてかけがえのない尊い私の人生なのだ」と受けとめることができない私たちを、ありのままに見つめる仏の眼です。言いかえれば、それは自分の思いをはるかに超えて、私の人生をまるごと引き受けてくださる阿弥陀如来のお心なのでしょう。
阿弥陀如来は、自分の人生の出来事をなかなか承知できないでいる私の思いをよくよく知ってくださっていて、そのような私たちに、全てを引き受けていける智慧の眼が開き発ることを本当に願っているのです。
私たちの生活の中では、いつでも、どこにいても、ありのままの私を映し出す鏡のはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏であるといえるでしょう。
中島 航(なかじま こう)
1975年生まれ。九州大谷短期大学准教授。京都教区山城第2組浄泉寺衆徒。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。
[註]藤田 徹文:1941~2024 大阪市生まれ。龍谷大学大学院(真宗学専攻)修了。本願寺派基幹運動本部事務室部長、浄土真宗本願寺派伝道院部長・主任講師を経て、備後教区光徳寺前住職、本願寺派布教使

今年の法話(2026年)
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[今年の法語] |
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これからが これまでをきめる |
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How I live from now reveals how I have lived until now. |
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藤代 聰麿(ふじしろとしまろ) |
[法話]
どんな家に生まれたか。どこの学校を出たのか。どんな職場で、どんな地位にいたか。どんな資格を持っているか。社会における人間の評価は、およそ履歴書で判断されます。学歴や、経歴を誇れる人は、世間の期待を受け、大手を振って道を歩けますが、誇れる学歴も経歴もなく、つらい過去を持つ者は、差別に満ちた格差社会の中で、耐えて生きるしかない現実があります。世間の常識から言えば、「これまでが、これからを決める」のでしょう。
しかし、よくよく考えてみると、もし、履歴書によって未来のすべてが本当に決まるのなら、優等生しか助からないことになり、仏教が目指す万人平等の救いは、成り立たなくなってしまいます。
親鸞聖人は、『教行信証』「行巻」(聖典第二版209頁)に、「大小聖人、重軽悪人、皆同じく斉しく選択大宝海に帰して念仏成仏すべし」と、示しておられます。偉大な聖者も、立派な人も、極重悪人も、ちっぽけな悪人も、助かる道は、ただ一つ、如来が選択して下さった功徳の大宝海に帰して、念仏して仏に成る道しか無い、と示しておられるのです。
『正信偈』には「等覚(とうがく=等正覚))を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」と謳われています。すべての衆生が等正覚(とうしょうがく=如来に等しい覚り)を成り、大涅槃を証することが出来る根拠は、個人の努力にあるのではなく、如来が必至滅度の願(=浄土往生した者に必ず仏のさとりを得させるという願い)を成就して下さったからだ、と示されました。
人生は、過去で決まる、と思い込み、過去を悔い、現在を苦しみ将来はどうなるのだろう、という、誰もが抱いている不安を、根底から払拭して下さったのが、親鸞聖人の先のお言葉です。
自力を頼み過去の経歴にこだわる心を棄てて、念仏申す身となれば、この先何があろうと、必ず浄土に生まれ、仏と成る事を約束された人生を、共に生きて往ける、と信じられる世界が開けます。人生は未来によって決まる、という現在を賜るのが、浄土の証です。「必ず滅度(=生死の迷いを超越した悟りの境地)に至る」という、確かな未来を、疑い無く信じられると、すべての後悔、苦悩、不安が、御恩に変化します。
苦悩の過去が無かったら、浄土を願う身には成れなかった私です。つらかった過去も、現在の苦しみも、未来への不安も、すべてが、私を浄土に向かって歩ませる、無くてはならない動機だったのです。そのことに頷けば、後悔と苦悩と不安に満ちた私の生活が転ぜられ、精一杯努力せずにはおれない、報恩の生活が始まるから不思議です。
この法語は、わずかに13文字で、浄土真実の証を表しています。仏教用語を用いずに、聞く者が、深く思いを回らし、なるほどと、頷き、過去の束縛から解放され、明るい未来に向かって歩み始める現在を賜る、深い不思議な言葉です。
「信に死し 願に生きよ」と示された曽我量深先生の言葉と同様に、聞く者が、永遠の未来に向かって歩み出す、力を賜る言葉です。
藤代先生は、明治44年福岡県田川郡糸田町の伯林寺の生まれで、日中戦争からの帰還後、お寺を弟様に託し、京都に移住されました。曽我量深先生がGHQから公職追放処分を受けられると、大谷大学の職を辞し、曽我師の随行(ずいこう=目上の人のともをし、つき従って行くこと。また、そのともの者)として、伝道の旅を続けられました。平成5年4月、旅先の江田島市明慶寺で、82歳で入寂(にゅうじゃく=僧侶が亡くなること)されました。
従軍体験の苦悩を縁として、寺を出て、住職を辞し、一生かけて曽我先生の教えを聞思し、選択の大宝海に帰して、念仏成仏された藤代先生の遺教が、この法語です。
樋口 不可思(ひぐち ふかし)
1951年生まれ。九州教区八女組淨圓寺住職。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。
◎あけましておめでとうございます。旧年中は何かとお世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今年度の法語カレンダーのテーマは、昨年に続き「宗祖親鸞聖人に遇う」です。親鸞聖人のみ教えにふれた先達のお言葉を通して、あらためて宗祖に出遇っていただきたいと願い、13点の法語を選定されたとのことです。(カレンダー裏面参照)
一年間ともに味合わせていただきましょう。
合掌
