松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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2025年1月アーカイブ

2025年1月の法話

[1月の法語]

いつでもどこでも (だれ)でも助ける(ぎょう) それは念仏

The practice that enables anyone, at anytime, anywhere, to become liberated is none other than the Nembutsu.

竹中 智秀(たけなかちしゅう)

[法話]

私は10年以上前に、趣味の自転車で交通事故に遭(あ)い、大ケガを負って2カ月の入院生活を余儀(よぎ)なくされたことがあります。

その時にお世話になった救急医療のありようを通して、お念仏に込められた阿弥陀さまのお慈悲を思うきっかけとなりました。

中国の高僧 善導(ぜんどう)大師は、阿弥陀さまの大いなるお慈悲のありようについて、

「陸の上の人よりも、水の中で溺(おぼ)れている人を、急いでお救いくださる」という「救急の大悲」をお示しくださいました。

「苦しんでいるいのちを、なんとかして救いたい」という救急医療のありようを通して、阿弥陀さまのお心の一端(いったん)を思います。

「いつでも」・・・「夕方6時で受付を終わりますね、年末年始は休業しますね」という救急医療はあまり聞いたことがありませんね。24時間365日休むことなく、苦しむいのちを救いたい、という願いが救急医療に込められています。

「どこでも」・・・都会はいいけど、私が住んでいる飛騨(ひだ)の田舎はちょっとやめときますね、という救急医療も聞いたことがありませんね。どのような場所であっても、病気やケガで大変な目に遭っている人を救いたい、という願いが救急医療に込められています。

「だれでも」・・・救急医療の現場で「あなたちゃんと税金を納めていますか?」「支持する政党はどこですか?」とは聞かれませんね。治療を受ける患者さんに一切の区別・選別・差別をせず、あらゆる人を救いたい、という願いが救急医療には込められています。

ただし実際に救急病棟(びょうとう)に運ばれますと、腰を痛めた年輩の方や、熱を出して泣き止まない赤ちゃんより先に、私がまっさきに治療を受けることができました。

それはなぜなのか。救急医療の現場においては、最も大きなケガや病気を負った患者が、真っ先に治療を受けるべき「おめあて」である、ということなのです。

南無阿弥陀仏のお念仏に込められた阿弥陀さまのお慈悲とは、まさに「救急の大悲」でありました。

「いつであっても、どこであっても、あらゆるいのちを救う仏に、私が成る」との願いが完成され、南無阿弥陀仏のお念仏と成って、私が称(とな)えるまま、聞こえるまま、私の中に入り満ちてくださっています。

そのお心をよくよく味わっていきますと「今、ここで、この私が一番のめあて」と願われていました。最も大きな苦悩を抱(かか)え、最も救われ難いいのちであるこの私こそが、阿弥陀さまのお慈悲のど真ん中に包まれていたのです。

朝戸 臣統(あさと たかつな)
本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師、
布教使課程主任講師、岐阜県高山市神通寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎今回は阿弥陀如来の働きを救急医療のありように例えながらのご法話でした。

ここで私が感じたのは、朝戸先生が大けがをして二ヶ月もの入院生活があればこそのお話でありお気づきであるということです。大過のない日常生活をしていて阿弥陀如来のお救いに気づくことは滅多にありません。気づいたと思ってもすぐに忘れてしまうのがこの「私」です。そんな「私」こそが救いの目当てであると仰せになるのが阿弥陀如来なのです。よくよく考えてみなければと改めて思いました。

合掌

今年の法話(2025年)

[今年の法語]

宗教とは生死(しょうじ)(つらぬ)くまこと一つの教え

Religion surely is a guide for one to cope with living and dying.

中西 智海(なかにしちかい)

[法話]

「死んだらおしまいですよね。生きているうちが花ですね」 ご法事の際に、参加者から聞こえてきた「ホンネ」です。 世の中では「よりよく生きる」ことがもてはやされ、死を遠ざけ、目を背(そむ)けていることが多いようです。でも、死を見つめなければ、本当の生もわからないのだと教えてくれるのが、宗教ではないでしょうか。

「蟪蛄は春秋を識(し)らず」とは、中国の思想家 荘子(そうし)が残した言葉だそうです。夏の暑い季節に地中から這(は)い出て成虫となるセミ(蟪蛄)は、春と秋を知ることはない、と仰(おお)せになりました。それを受けた中国の高僧 曇鸞(どんらん)大師は「この虫あに朱陽の節を知らんや」(『註釈版聖典七祖篇』98頁)と続けられたのです。つまり、春と秋を知らないセミは、夏(朱陽)が夏であることさえも知らないのだ、という譬(たと)えです。

曇鸞大師は、セミをバカにしているのではありません。私の姿を言い当てておられるのです。私のいのちがどこから来て(春)、どこへ行くのか(秋)を知らないままに人生を過ごすのであれば、人生の意味(朱陽)を知らないままに、虚(むな)しい人生となってしまうとおっしゃるのです。

私の日常では、生きていることが当たり前で、死は不幸にも突然にやってくるのだと思い込んでいます

「生は当然、死は突然」

というのが、私の握りしめた「モノサシ」です。

しかし、仏法に照らされることで、そうではない「モノサシ」が示されるのです。不思議なご縁が重なり合い、人として誕生することができた私であると同時に、この世の縁が尽きたならば、いのち終えていくことは必然なのでありましょう。

「生は偶然、死は必然」(金子大榮(かねこだいえい)師)

という、私のいのちのありようを、仏法は教えてくださいます。まさに「生死一如(しょうじいちにょ)」であり、生も死も分け隔(へだ)てできず、どちらも私のいのちの現実であることを知らされるのです。

残念ながら、私たち人間の限定的な知識の積み重ねでは、このいのちの行き先はわかりません。だからこそ、釈尊(しゃくそん=釈迦)が説かれた仏法を聴き、人知を超えた救いのはたらきを聴かせていただくのです。

自ら迷いを断ち切って、生死を超える道を歩みなさい、という仏道もありますが、親鸞聖人がお示しくださった他力念仏は、私に迷いを断ち切りなさい、自分で生死を乗り越えなさいという仏道ではありません。

苦悩と迷いを抱(かか)えて生きる私に「かならず救う、われにまかせよ」との願いを「南無阿弥陀仏」に仕上げてくださいました。

称(とな)えるまま、聞こえるまま、ずっと私に寄り添い続け、この世の縁が尽きる時には、かならず浄土に生まれて、仏と成らせていただく。

生死を貫くまことの教えは、南無阿弥陀仏と仕上がって、すでに阿弥陀さまから届いているのです

朝戸 臣統(あさと たかつな)
本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師、
布教使課程主任講師、岐阜県高山市神通寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎あけましておめでとうございます。旧年中は何かとお世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

昨年は元日に能登半島地震があり大変でしたが今年は穏やかな年始を迎えることができました。このまま平和な日々が続いてくれたらと願うばかりなのですが、諸行無常(あらゆるものは例外なく移り変わってゆく)であり、山あり谷ありなのが人生です。だからこそこんな私たちを知恵と慈悲の光で照らしてくださる阿弥陀如来に全てお任せしこの一年も力強く生き抜いてゆきたいと思うのです。

合掌