2025年11月の法話
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[11月の法語] |
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浄土へ生まれたい というのは 浄土へ生まれよ という 如来の命令なんだ |
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Our wish to be born in the Pure Land arises from what the Tathagata tells us. |
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仲野 良俊(なかのりょうしゅん) |
[法話]
「浄土へ生まれたい」
わたしたちは常日頃からそう思って生きているでしょうか? すぐに首を縦に振ることのできない問いだと思います。ここに「浄土へ生まれよ」という「如来の命令」の意義があるのでしょう。そもそも、人間というのははじめから「浄土」を求めているわけではありません。むしろ「浄土」すら知らないのです。または知っている気になっていて、実は知らないともいえます。
私は真宗寺院に生まれ、幼いころからお念仏の中で生活していたものの、大学生までの間ずっと背を向けて生きてきました。大谷大学へ行くことになった時も、最後の反抗で真宗学科には入学せず、歴史学科に入り教員を志していました。
しかし、転機が訪れます。きっかけは同じ境遇の友、そして恩師との出あいです。大谷大学は全国から寺院に生まれた人たちがたくさん集まります。二十歳そこそこの学生ですから、皆、表面的には反抗が見られるのですが、私と違って彼らの会話の中には真宗の話が端々に現れていました。正直、そこで初めて自分がお寺に生まれながら「浄土」を知らないことに気づかされました。もちろん、長年耳にしていた言葉ですから、初めて聞いたわけではありません。何度も、何度も触れていたはずなのに知らなかったのです。自分が恥ずかしくなりました。
ある時、「このままではダメだ」という気持ちに悩み、真宗学の勉強会に参加しました。そこでお世話になった先生のお話が忘れられず、のちに大学院へ入学し、私の真宗への学びは始まりました。最終的には六年という長い期間、大学院でお世話になることになります。
さて、私ははじめ真宗教義に学べば「浄土に生まれる」ということも理解できるだろうと思っていました。端的(たんてき=はっきりと)に言えば、大変浅はかながら「浄土に生まれたい」と思うようになれると考えていたの です。ところが、どれだけ学んでも、「浄土に生まれたい」という心が起こらない自分がはっきりするばかりでした。そこではっとしました。私は「浄土」の意味を勘違いしていたのだと。
私は「浄土」をこの現実から遠く離れた、どこか別の世界だと思っていました。目に見えないものですから、ある意味でこう考えるのは当然かもしれません。ただ、このように考えてしまうと、途端に「現在」とは無関係のものになってしまいます。ここが私にとって大きな問題だったのです。「だったら今は関係ないじゃないか」――何度もそう思った記憶があります。ですが、「浄土」とは現在を離れてあるものではないのです。
親鸞聖人は、真実に報いた世界を「浄土」と示し、その世界は如来の限りない光と限りない命の成就を根拠としている、と明らかにされています。言い換えるなら、如来のはたらきは時空を超えており、一切の限界がないということです。ですから、「浄土」とは、今現にわれわれ衆生に関わり、はたらき続けている如来そのものと決して別ではないのでしょう。だからこそ、私に「浄土へ生まれたい」という起こるはずのない心が発おこるのです。
あれだけ反抗していた私がいま自坊で法務をさせていただいている。如来のはたらきの中に生きる意味を考えずにはおれません。
岩田 香英(いわた こうえい)
1992年生まれ。名古屋教区第21組新福寺衆徒
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。
[註]:仲野 良俊 1916~1988 浄土真宗僧侶(真宗大谷派)、仏教学者
◎先月半ば過ぎより長期間にわたる暑さも終わり秋も深まって参りました。最近は朝晩が肌寒く感じるほどですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
大阪関西万博も盛況の内に先月終幕しました。万博ロスという言葉をきくほど万博にはまって何度も足を運ぶ方がいるほど人気があったようです。私は残念ながら一度も行くことがかなわなかったのですがテレビ等で盛況ぶりを拝見することができました。開催前は何かと否定的なこともいわれていたので本当によかったと思います。
今月は報恩講です。親鸞聖人のご命日を縁として、そのご遺徳を偲び感謝し、ご恩に報いるためなお一層聞法させていただくご法縁です。静かに手を合わせお念仏申したいと思います。
合掌

