松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2022年11月の法話

[11月の法語]

たとえ一人になろうとも 仏はあなたと共にある

Even if you find yourself alone in this world, Amida is with you.

雪山隆弘

[法話]

 今回、本願寺派の布教使、雪山隆弘氏のことばとしてこの一句を教えていただきました。雪山氏の亡くなられた翌年(平成三年)に発行されたエッセイ集、『ブッド・バイ―みほとけのおそばに―』(百華苑)の最終回、さらには最後の段落で語られたことばです。闘病生活のなか、半年にわたって『産経新聞』に連載されたエッセイは、「みほとけのおそばに」と頷(うなず)いた教えを通して、雪山氏が感得(かんとく=奥深い道徳や真理などを感じ悟ること)されたことばで溢(あふ)れていました。なかでも印象的だったのは、共に同じ教えを聞く者として、奥様やお父様との出遇(あ)いを本当に喜んでおられる姿でした。病気が進行するなか、自身の死を意識しつつ語られることばは、「独りぼっち」からは程遠いものだと感じました。

 以前、参加した研修会で、ある先生が「〈一人でいられる〉のと、〈一人でしかいられない〉のは違うんや」と、つぶやくようにおっしゃったことばが忘れられません。数十人が集(つど)い、泊まり込みで行われる研修会では、集団生活の煩(わずら)わしさを感じたり、話し合いになれば意見が合わなかったりすることもあります。そんななかで、他人と一緒にいることは疲れる、と感じていた〈一人でしかいられない〉私には、先生から続けて投げかけられた言葉がさらに響きました。「本当に一人でいられる人は、他人とも一緒にいられるんじゃないだろうか」。

 周(まわ)りといることが煩わしくなれば「一人になりたい」と思い、独りぼっちが寂しくなれば「みんなといたい」と思ってみたりと、私は〈一人でしかいられない〉と〈みんなでしかいられない〉の間をウロウロしているのです。自分の都合で他者を利用しながら、「一人」でも「みんな」でもいられずに、「本当に一人でいられる」ということがはっきりしない私がそこにいるのでしょう。

 「たとえ誰からも見放されたとしても、仏さんだけは一緒にいてくださる」ということだけならば、それは慰(なぐさ)めであり、自己満足の世界に閉じこもっていくようなことに終わるのではないでしょうか。誰もが、誰にも代わることのできない尊い「一人」を生きている。そのことを知らせんとするはたらきこそが仏でしょう。人と比べ、威張(いば)ったり、卑屈(ひくつ)になったりする必要のない「一人」の私がここにいる。そして、その事実への頷(うなず)きは、隣におられる他者と共に生きる世界への開けでもあります。仏がそばにましますということを、独りぼっちの慰めにするのではなく、その教えを通し、共に大悲(だいひ=阿弥陀如来の大きな慈悲)される者として、他者と出遇っていかれた雪山氏の姿が思われます。

 一人になれるということが、実は周りとの関係を開いてくる。「たとえ一人になろうとも、仏はあなたと共にある」とのことばは、「独りぼっち」に終わるような終点ではなく、他者とのつながりをいただく起点なのだと思います。

松林 至(まつばやし いたる)

1982年生まれ。教学研究所嘱託研究員。岡崎教区西岸寺住職。

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[註]
雪山隆弘(ゆきやま たかひろ)
昭和15年(1940)生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年(1990)門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

◎先月初旬は30℃あった最高気温が20℃くらいになりすっかり秋らしくなりました。朝方はぐっと冷え込んで各地で紅葉が進んでいるようです。年々季節の移り変わりの早さに身体がついて行かないことを思い知らされます。皆様方もご自愛くださいますようお念じ申し上げます。

合掌