松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2022年10月の法話

[10月の法語]

悲しみあるがゆえによろこびあり 煩悩(ぼんのう)あるがゆえに菩提(ぼだい)あり

Because we feel sorrow, we can feel delight. Because we have defilements, we can attain the wisdom of the true awakening.

伊東慧明

[法話]

罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる
こほり(氷)とみづ(水)のごとくにて
こほりおほき(氷多き)にみづおほし(水多し)
さはりおほき(障り多き)に徳おほし(多し)
(『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)

 とても難しい和讃ですから、ゆっくり、言葉を補(おぎな)いながら味わってみましょう。

 「罪障」というのは、文字通り、この私の罪と障(さわ)りです。功徳とあるのは、如来さまのはたらき、その功徳をいいます。この功徳は、浄土に往生してからの功徳ではないことに、気をつけなければなりません。今、この私の上ではたらいてある功徳をいいます。「体」というのは、『広辞苑』では「物事がはたらく際、もとになる存在や組織」と定義されています。そうするとこの一首の意味は、

「この私の罪や障りこそ、如来さまのはたらきのよりどころであり、大本(おおもと)なのです。ちょうどそれは氷と水のような関係で、氷が大きいとそれが溶けてできる水も、量が多くなります。私の障りが大きければ大きいほど、如来さまの功徳も、それをつつみこむように、より大きくはたらいてくださるのです」

というほどの意味になります。この和讃のたとえが絶妙で、氷と水の本質は変わりません。もし本質が異なれば、氷は絶対に水になることはできません。ここにそっと、仏教の原理が説かれています。

 出処(しゅっしょ=出所、出どころ)は知らないのですが、こんな話を読んだことがあります。
江戸時代の大谷派の学僧、香月院深勵(こうがついんじんれい 1749~1817)師が、安居(あんご=僧が、夏、1か所にこもって修行すること)で京にこられたことがありました。久しぶりにお会いできると、お泊まりの所へお同行(どうぎょう=心を同じくしてともに仏道を修める人々。真宗ではその信者をいう)が訪ねて行かれます。

「和上(わじょう=高僧の尊称)さま、お久しぶりでございます。この度は、ご苦労様でございます」
「おお、久しぶりじゃ。よう来てくれた。ところで、手土産は何かな」
思いがけない言葉。和上も歳を召(め)されたのかと、
「取り急いで参りました。手土産はまた明日にでも」
「なに。手土産もないのか」
「明日、持参いたします。何がよろしゅうございましょう」
「...そうじゃな。お前さんの罪と障りを持ってきてくれるか」

阿吽(あうん)の呼吸(=二人以上で一緒に物事を行うときの、互いの微妙な気持ち。また、それが一致すること)で、お同行には和上の心がわかりました。
「仰(おお)せではありますが、罪と障りは、とうの昔に如来さまにお預けしてあります」 「おおーっ。如来さまに先を越されたか。それでは、お前さんの煩悩を、重箱(じゅうばこ)に詰(つ)めてきてくれんか」
「和上さま。仰せでもそれは無理でございます。煩悩こそ、私のよろこびの種でございますから」

 ここに念仏者の人生、すべてが言い尽くされてあります。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

◎後半は禅問答のようでしたね。阿弥陀如来の本願力(すべての衆生をすくい取ってやまないという誓い)によって凡夫が煩悩をもちながらも往生できるという浄土真宗の特徴がここにあるように思いました。

合掌