松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2022年1月の法話

[1月の法語]

きょうもまた 光り輝くみ仏(ほとけ)のお顔おがみて うれしなつかし

How happy and heartwarming it is for me to gaze up at Amida's face again today.

稲垣瑞劔(いながきずいけん)

[法話]

一月の法語は、浄土真宗本願寺派の僧侶である稲垣瑞劔師(1885-1981)のお言葉、「大信海」と題する文章にある一句です。今あらためて、その文章の冒頭をいただき直したく思います。

 

南無阿弥陀仏
私を離れた如来なし
如来を離れた私なし
(法雷叢書3『願力往生』法雷会ほか)

 

  私たちは日ごろから、どのような思いで、仏さまに手を合わせているでしょうか。どのような心持ちで仏さまの尊前に座り、お念仏を申しているでしょうか。そして、光り輝く仏さまの尊顔に、日々出あえているのでしょうか。

 

  南無阿弥陀仏とは、人間の言葉ではなく、仏さまから与えられた名のりです。その名のりは、私たちの苦しみや悩みのもとを破る不可思議なる智慧の光であり、無量なるいのちの願いです。

 

 曽我量深(そがりょうじん 1875~1971 真宗大谷派僧侶、仏教思想家)先生は、「念仏は原始人の叫び也(なり)」とおっしゃられました。私たち人間は、叫び声を秘めて生きています。ところが、いのちの叫びともいうべきその声は、私たちの身の中(うち)の深い深い奥底の叫び声であるために、自分の思いや努力によって気づくことはできません。自分が何のために生まれてきたのか。本当は何を求め、何を願っているのか。どういう自分として生き、どういう自分として命を終えていきたいのかが分からない、それを「無明(むみょう=邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩)の闇」というのです。

 

  先日、ある聞法(もんぽう=仏の教えを聴聞すること)の集(つど)いで、一人の青年と出あいました。将来は真宗大谷派の僧侶として生きていこうとするその青年は、自分のあり方に不安を抱(かか)えておりました。その時、その青年の目に、ある先輩僧侶の姿が留まりました。それは、ご本尊を前にして丁寧に合掌しお念仏を申される姿、出あわれる一人ひとりに対して丁寧に頭を下げられる、真摯(しんし=まじめで熱心なこと。また、そのさま)で温かいお姿でした。そこで青年はその方に、どのような思いでそうされているのかを尋ねたそうです。するとその方は、「私ももう長くないんでね。若い皆さん方に託(たく)したいんですよ。そういう私にできることは、この私がご本尊の前でお念仏を申すことしかないんでね」と言われたそうです。その言葉を聞いた青年は、ご本尊の前に進み出て座り直し、何度もお念仏をされました。そして私に、真剣な眼差(まなざ)しで言うのです。「生まれて初めてです。お念仏をしたくなったのは...」と。その言葉は、その青年が、これまでずっと出あいたいと願ってきたこと、求めてきたことにようやく出あうことができた喜びとして、私の身に響き届きました。

 

 真実の教え、すなわち本願は、私たち人間の叫び声に呼応(こおう=一方が呼びかけ、または話しかけ、相手がそれに答えること)して説かれました。この私一人(いちにん)の叫び声を離れて仏さまはおりません。また私たちは、仏さまからの願いを離れては、自分の心の奥底にある最も盛んな要求に、気づくことはできないのでしょう。

 

 迷い、疑い、叫び続ける私たちは、今日(きょう)もまた、南無阿弥陀仏という仏さまに、信じられ、敬(うやま)われ、育てられ続けます。南無阿弥陀仏は、「もとのいのちに帰(き)せよ」と私一人を招き喚(よ)ぶ、嬉(うれ)しく、そして懐かしい、光り輝く仏さまなのです。

 

仁禮 秀嗣(にれい しゅうじ)

1969年生まれ。北海道教区圓照寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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