松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2021年10月の法話

[10月の法語]

老いが、病いが、死が 私の生を問いかけている

Old age, illness, and death all pose questions to me about my life.

二階堂 行邦

[法話]

 あれは、2009年の十二月も終わりの頃。当時、私は、妻と生後三ヵ月になる娘と京都で生活をしていました。ようやく首がすわった娘を連れて、初めて九州の実家に帰省する準備をしていた日のことです。

 

 その日の午前中から妻は買いものに出掛け、私は娘と留守番をしていました。娘をベビーベッドに寝かせながら、たまたま昼十二時前の短いニュースの映像に目がとまりました。ニュースは、深夜に起こった交通事故を伝えていました。警察官が、車にひかれて亡くなった、と。ニュースの最後に、亡くなられた方の名前と年齢が表示されました。そこに表示されたのは、学生時代の友人と同じ名前だったのです。しかも、同じ年齢。目を疑いました。驚いて別の友人に電話をすると、亡くなったという連絡を受けていたようで、間違いないとのことでした。友人の死を、しかも、テレビを通して知ったのは、あまりにも衝撃的な出来事でした。放心状態になり、言葉もわからない娘に「なぜこんなことになったのか」と何度も話しかけたことを、今でもはっきりと覚えています。

 

 彼とは、大学で四年間同じ部活に所属していました。人懐(ひとなつ)っこく、先輩・後輩を問わず、誰からも好かれていた彼は、いつも会話の中心にいて、みんなを笑顔にしていました。私のことを「れいちゃん」と呼び、事(こと)あるごとに「俺が死んだ時は、れいちゃんに葬式をたのむからよろしく」と冗談半分で言っていました。その彼が、急に亡くなったのです。数ヵ月前に結婚式を挙げ、これからと思っていた矢先の出来事でした。

 

 通夜・葬儀には、たくさんの方が参列されていました。曲がりなりにも仏教を学んでいたため、「僧侶として、ご家族に何か声をかけなければならない」と、どこか力(りき)みながら葬儀場に向かいました。しかし、その思いは、見事に打ちくだかれました。棺(ひつぎ)に入った彼の姿を見た途端、何も言えなくなってしまったのです。彼の死は、私の学びがどこまでも知識としての学びでしかないということを気づかせてくれました。

 

 お釈迦(しゃか)さまは、老病死を見て出家(しゅっけ)を決意されたと伝えられています。『大無量寿経』というお経の中には、次のように説かれています。

人間として生まれた限り、どんな人も老(お)い、病(や)み、死んでいくことは避けられません。そのことを、「世の非常」という言葉は教えています。他人事(ひとごと)ではなく、私の身の事実です。ただ、老病死を知っていることと、わが身の課題となることは違います。老病死がわが身の課題になった時に、初めてその身をどう生きていくかを問い尋ねていく歩みが始まることを、お釈迦さまの出家は教えているのです。

 

 できるだけ若く、健康で、長生きしたいというのは、多くの人が願っていることでしょう。しかし、誰も老病死を避けては通れません。ですから、私たち一人ひとりには、老病死の身の事実をどのように生きていくかという大きな課題があるのです。そのことを教えているのが、「老いが、病いが、死が、私の生を問いかけている」という言葉ではないでしょうか。

 

青木 玲(あおき れい)

1980年生まれ。九州大谷短期大学准教授。九州教区三潴組覺圓寺衆徒。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎今月に入りようやく緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が解除されました。大阪府の場合は依然として新型コロナ警戒信号が赤色のままであり、ひきつづき感染防止対策の徹底をお願いしますとのことです。今月のご法話はとりわけ重い内容に感じられました。私たちは「若いまま」「健康なまま」「死なない」でいるということはできません。生きていくことには「老いていくこと」「病気になること」「いつかは死ぬこと」が常について回ります。逆に「老病死」=「生きること」といえるのかもしれません。そのことに気づくのは本当に皮肉なことですが、「老病死」に直面した時なのです。この2年近くコロナ渦に振り回されている私たちですが「自分自身の生」について問われているように思います。

合掌