2021年5月の法話
[5月の法語] |
己(おの)れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ |
Even though I have no aspiration for birth in the Pure Land, |
I am embraced within the Buddha's Wish. |
藤元 正樹 |
[法話]
この言葉を読まれて、「いや、私にも願いがある」と思われるかも知れません。自分の将来のことや、子どもたちに幸せになってほしいという願いがあると。でもそれらはあくまでこの人生内のことで、死後のことはもうどうなるのかはわかりません。はっきりとはわからないけど、「できれば良いところへ生まれたい」、という願望くらいではないでしょうか。
私たちの願うことは、「願い」というよりも「わがまま」ではないかと思います。まず願わくは、楽をして生きていたいということです。あまり働かなくてもお金が入ってくることが幸せだと思っていて、そういう人をみると羨(うらや)ましく思います。
私は、食べては寝るさまが畜生(ちくしょう)だと思います。いわばペットです。キャットフードやドッグフードを食べて、一日中安全なところでごろごろしているさまこそ畜生です。野生の動物は、危険な環境の中で、命がけで子育てをしています。いわんや人を助けて働いている盲導犬や救助犬は、見返りの賃金を求めない菩薩のような仕事をしていると思います。
また餓鬼(がき)の世界は、あれが欲しいこれが欲しいという欲求ばかりの世界です。より良い家に住みたい、もっと良い車に乗りたい、さらにはもっと美しく健康になりたいと、きりのない願望が続きます。テレビのコマーシャルは、私どもの欲求をさらに高めていきます。現代の欲求とそれが満たされないストレスに満ちた社会こそ、餓鬼の世界ではないでしょうか。
そして地獄とは、自分のことしか考えない世界です。例えば、私に「10万円あげます」と言われたら嬉しくなります。何もしなくても10万円いただけるんですから。でも周りの人は100万円もらっていて、自分だけ10万円だったら? とたんに喜びも消え、怒るかもしれません。でもたとえ100万円もらっても、周りの人が1千万円もらっていたら? やはり嬉しくはありません。しかし私だけだったら、1万円でも嬉しいのです。
私たちの願いは、私一人、欲望が叶(かな)って楽をしていたい、というのが本質ではないでしょうか。地獄、餓鬼、畜生の世界は、罰(ばつ)が当たって行くところではなく、私たちが願って行くところなのです。
海に例(たと)えてみましょう。私たちは岸に向かって一生懸命に泳いでいるとします。しかしどんなに泳いでも、潮に流されるとまたもとの位置にもどります。もう着くころと思っても、またもとの位置です。同じところをぐるぐる回り続けていると言ってよいでしょう。なにせ岸がどこにあるかもわからないまま、地獄、餓鬼、畜生の方向に泳いでいるのですから。
そんな私をほっておくわけにはいかない、とはたらいておられるのが阿弥陀仏です。真っ暗な海の中でもがき続ける私に、「南無阿弥陀仏」の声となって届き、その「南無阿弥陀仏」が、この私を浄土という岸へと引っ張っていくのです。
「南無阿弥陀仏」とお念仏を申してみてください。それは私がやっと岸に向かったということです。永いながい間、闇の中に迷子となりもがき続けた私が、やっと家路についたということです。真の願いなんて微塵(みじん)もない私に、ずっと昔より私に願いがかけられていたのです。
私は己れに願いはなくとも、願いをかけられた身だったのです。
福間 義朝(ふくまぎちょう)
浄土真宗本願寺派布教使、布教研究課程専任講師、広島県三原市教専寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。
◎新型コロナウイルスの感染が第4期に入り想像以上のペースで拡大しています。先月より三回目の非常事態宣言が大阪をはじめ各地で発令されました。
開催予定でありました「春の法要(永代経)」は感染拡大防止のため残念ですが、急遽内勤め(寺院家族だけでお勤め)に変更させていただきました。何卒ご了承下さい。また今回ご参加申込された皆様方には改めてお詫び申し上げます。
ストレスを感じる日々が一年以上続いています。日ごとに変化する情報に振り回されることなく一日一日をお過ごし下さいますようお念じ申し上げます。
合掌