2019年10月の法話
[10月の法語] 「信心」というは すなわち本願力回向(えこう)の信心なり Shinjin is the entrusting heart that is directed to beings through the power of the Primal Vow. 『顕浄土真実教行証文類』「信巻」 |
[法話]
「『他力(たりき)の信(しん)』と『他力(たりき)回向(えこう)の信心(しんじん)』とは、まったく異なった事柄である」。
最初、このことを聞いた時、私は驚き、違和感を持ちました。その時まで、自分の心で他力(阿弥陀如来のすべてを救おうとする願い・誓い(=本願)のはたらき)を信じると思い込んでいたからです。「他力の信」とは、「私が他力を信じる」という立場です。ところが「他力回向の信心」とは、私が信じる心も他力のはたらきであるという立場です。この二つの区別が、私の人生にとってどれほど大きな意義をもつか、少しずつ思い知るようになります。
私たちは自分の心に、何を信じるか、何を信じないかを選ぶ能力があり、また決定する自由があるのだと思い込んでいます。しかし、そのような自分の心によってつくりあげた信は、自分の都合で変えることでき、また現実によって崩(くず)れるので、真の依(よ)り処(どころ)にはなりません。自分の心は、病気になれば変わってしまい、死によって消えてしまいます。自分の心には、老病死によっても壊れない信心は成り立たないのです。
私たちの心はみな、虚構(虚妄分別(こもうぶんべつ=物事の真相を間違えたまま理解し、判断すること))という病に罹(かか)っています。その心によってつくりあげた信も、虚構という病に感染しています。それゆえに、みずからに酔う独善的な信仰となり、善悪にとらわれた排他的な信条となります。自分の知識や心情や体験などにとらわれて、理解の浅い人を排除し、感動の無い人を差別し、意欲の弱い人を非難するのです。
源空聖人(げんくうしょうにん)(法然上人(ほうねんしょうにん))のもとで学んでおられた親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、すべての人に平等な信のあり方を言い当てることができないもどかしさの中で苦しんでいました。その時、源空聖人から驚くべき言葉を聞きます。
源空(法然)が信心も、如来(にょらい)よりたまわりたる信心なり。善信房(ぜんしんぼう)(親鸞)の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。(=この源空(法然聖人)の信心も阿弥陀如来からいただいた信心です。善信坊(親鸞聖人)の信心も阿弥陀如来よりいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。)
(『歎異抄(たんにしょう)』真宗聖典639頁・丸カッコ内は筆者)
智慧(ちえ)も才覚も、男も女も、生まれも育ちも、どのような価値も資格も必要としない、誰にとってもただ一つの信心、私たちの心の事実でありながら、私たちに属しておらず、また私たちの心に生じるけれども、私たちの心から生まれたのではない信心、そのような信心は「如来(にょらい)よりたまわりたる(=阿弥陀如来からいただいた)」と表現されなければならない。
この「おおせ(=おことば)」を親鸞聖人は畢生(ひっせい=命の終わるまでの間。一生涯。終生)の課題とされ、天親菩薩(てんじんぼさつ=北インド・4~5世紀 七高僧の一人)の『浄土論(じょうどろん)』によって、「如来より」とは「本願力(ほんがんりき)」であり、「たまわりたる」とは「回向(=浄土真宗では阿弥陀如来がその徳を人々にふりむけて救済の手をさしのべること)」のはたらきであると厳密に表現してくださったのです。
正直なところ、「本願力回向の信心」というむずかしい表現は、私の平穏な生活には縁遠いものでした。しかし心の持ち様などではどうすることもできないできごとがおこり、生きる根拠を揺り動かす不安に出遭(であ)い、これまで何を信じていたのか、信じるとはどういうことか、がわからなくなった時、この「『信心』というはすなわち本願力回向の信心なり」という確かめが持つ大切さを、思い知るようになりました。
真実に目覚めることは、真実からの呼びかけによるしかない。この単純簡明な道理に立つことが、私たちとってはきわめて困難なのです。「本願力回向」という表現は、この困難さに深く思いをいたし、涙した人からの贈り物です。
この法語は、私たちに、自分の心で他力を信じるという思いこみを省(かえり)みなさい、「他力回向の信心」以外に信心はない、ただ如来の呼びかけを聞くものとなりなさい、と促(うなが)しているのです。
加來 雄之(かく たけし)
1955年生まれ。大谷大学教授。日豊教区淨邦寺衆徒。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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