2019年5月の法話
[5月の法語] 十方(じっぽう)の如来は 衆生を一子(いっし)のごとくに 憐念(れんねん)す The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as their only child. 『浄土和讃』 |
[法話]
先日、久しぶりにやってしまいました。足の小指をタンスの角にガツンと打ちつけたんです。ご経験のある方はご存じでしょう。痛いですよね。打った瞬間に思わず手を当てて、「いたたたたたたぁ」と、痛みがおさまるまで押さえていました。
娘は私と似ているのか、同じようなことがありました。娘は肘をドアのノブでガツンと打ったのです。
「痛~い、しびれたぁ」
私は愛のある父親です(と思っています)。ですから「大丈夫かっ?ケガしてへんか?かわいそうに...」と心配しました。自分も肘を打ってしびれた、痛い思いをした経験がありますから、 痛いことは知っています。
でも、本当のことを言うと、私の肘は少しも痛くないのです。
そうです。私たちはたとえ親子といっても、自分と他者です。
気持ちや心は通っていたとしても、娘の痛みを完全に自分の痛みとすることはできないのです。
阿弥陀(あみだ)さまはちがいます。私の痛みを自分の痛みとしてくださる、それがさとりを開いた仏さまです。
阿弥陀さまは私が傷つき痛みを覚えたなら、「大丈夫か?かわいそうに」と言うだけのお方ではありません。遠くから眺めているだけで「だいたい、あなたはそそっかしいから...」などと理由を告げて、「これから気をつけなさいよ」などと注意をし、課題を与えるお方ではありません。
自分が痛みを覚えたら、その痛みを放っておくことはできません。どうしてそんなことになったのかと理由を探ったり、これからどうすれば良いかなど課題を与える暇はありません。すぐに痛いところに手を当てて、その痛みを取り除こうとします。
阿弥陀さまが私たち一人ひとりを、わが一人子のように見てくださったと、聞きよろこんできました。親の一人子に対する愛情ををもってたとえられています。しかし、このおたとえは、単なる親の愛情ではなく、自分と他者を分け隔てしないさとりの境地が、その大元でありました。
いま、ここで、誰にもわかってもらえない痛みを覚え、苦しみに苛まれ、孤独を感じるほかない私に、「その痛み、苦しみ、孤独、全部この阿弥陀如来が引き受けた。必ず救う」と届いてくださっている。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。
葛野 洋明(かどの ひろあき)
龍谷大学(大学院)実践真宗学研究科教授。本願寺派布教使。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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◎「平成」が終わり「令和」という時代が始まりました。元号の呼び名が変わっただけで時間の流れや社会状況はこれまでと同じなのに新しい時代が到来するように感じてしまうのは何故なんでしょう。「昭和」と「平成」がよく比較されてきましたが、60年以上続いた「昭和」はもちろん30年あまりの「平成」も同じ状態がずっと続いたわけではありません。どちらの時代もひとくくりにして「昭和は~だった。」「平成は~だった。」と簡単には言えないと思うのです。
調べてみると元号が変わってきた(改元)理由として、
1.天皇の即位のため
2.おめでたいことがあったため(ただし平安時代初期の頃まで)
3.地震や火災、飢饉、戦いなどによってもたらされた災いを改めるため
天皇の即位は別として、災いを克服するために用いてきた手段が「改元」だったようです。心機一転、新しくなれば何かが変わるかもしれないという期待感ですね。現在の「元号法」(1979年制定)では、「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」となっていますが、私たちの気持ちの中には明治時代以前の「改元」の期待感が残っているのかもしれませんね。
テレビでは「ゆく年くる年」ではなく「ゆく時代くる時代」という特集をしていましたが、「令和」になってもどうぞよろしくお願い申し上げます。合掌