2019年1月の法話
[1月の法語] 如来誓願の薬は よく智愚(ちぐ)の毒を 滅するなり The medicine of the Tathagata's Vow destroys the poisons of our wisdom and foolishness. 『顕浄土真実教行証文類』「信巻」 |
[法話]
一年に一度は風邪をひいてしまいます。素人考えで「温かくしておいたら治るだろう」「よく寝たら治るだろう」なんて思っていると、案外と長引かせてしまったことがありました。
ちゃんとお医者さまに診てもらって、すっきりと治したい。そう思ってお医者さまに診てもらいました。
「風邪が長引いて...」
「いやいや、これは長引いているのじゃあないですよ。体調が悪いから、次々に新しい風邪を引いているんですよ」
「え~?そうなんですか。どうしたらすっきりと治ります?」
「そりゃあ、熱を下げたり、喉(のど)の痛みを取るだけの対症療法ではなく、体調を根本的に良くするのがいいでしょう。時間はかかりますが漢方薬を処方しておきますので、すっきりと良くなってください」
処方箋(しょほうせん=医師が患者に与えるべき薬物の種類・量・服用法などを記した書類。これによって薬剤師が調製する)をいただいて、お薬屋さんに行って、お薬をいただきました。
身体の芯から治す、いろいろな漢方薬。そのお薬を朝・昼・晩の毎食後、寝る前にも...。しかも長期間にわたって...。もう、びっくりしました。大きな袋が二つも手渡され、両手に薬の袋を下げて帰宅しました。それを見た家族もびっくりです。
「お父さん、そりゃあ、それだけ飲んだら治るわ!」
お医者さまは、私の症状を診てくださって、単にいまの症状だけに対処する処方をされたのではありませんでした。私が風邪をひき続けていた根本的な問題を見抜いてくださったのです。そしてそれがすっきりと治るようにと、お薬を処方してくださったのです。
阿弥陀(あみだ)さまのお救いはご本願(=阿弥陀如来が過去世(かこぜ)において立てた衆生救済の誓い。誓願)のお救いです。あらゆるいのちあるものを、この上ないさとりの仏に成らしめようと誓(ちか)いをたて、その誓願(せいがん)は「南無阿弥陀仏」と成就(じょうじゅ=できあがること)しました。
私たちは、持って生まれた煩悩(ぼんのう)によって、苦しみ悩みを自らが作りだし、迷い続けるほかはありませんでした。その苦しみ悩む迷いのもとを抜こうと誓い願われたのが阿弥陀さまでした。いまそのお救いは「南無阿弥陀仏」となって、私に届いてくださっています。
私の迷いの根本を抜き去って、すっきりと、必ずさとりを開かせる「南無阿弥陀仏」なのです。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。
葛野 洋明(かどの ひろあき)
龍谷大学(大学院)実践真宗学研究科教授。本願寺派布教使。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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[今月の法語](現代語訳)
阿弥陀如来の誓願は(薬のように)、自力の計らいである智慧の毒も愚痴(=おろかさ。真理に対する無知)の毒も滅するのである。
◎今月の法話は偶然にも昨年11月の報恩講法要で御高話いただきました葛野先生のお話です。今回も身近な生活の一場面を例にあげて阿弥陀如来のお救いをお話し下さいました。いつかまた春と秋の法要でご縁があればと思います。
今年の法話(2019年)
[表紙の法語] 煩悩を断(だん)ぜずして 涅槃(ねはん)を得(う)るなり
Without severing blind passions, they realize nirvana itself. 『顕浄土真実教行証文類』「行巻」 |
[法話]
この法語は「信心の智慧(ちえ)」(「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」第34首)そのものの知見力(ちけんりょく=真理を悟り知る智慧の力)を語る「正信偈(しょうしんげ)」の言葉ですが、わたしたちの理知(りち=理性と知恵、物の道理を分別理解する知恵)では到底(とうてい=いかにしても。どうしても)読めそうにありません。
なぜなら、理知からは「煩悩(ぼんのう=人の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念)を断ぜずして」という「不断」の世界が読みとれないからです。理知からすれば、煩悩を断じて(有断)こその救いと自己過信化するか、逆に人間なら煩悩はあたりまえだ(無断)と居直(いなお)る堕落(だらく)化かの、どちらかしかないからです。
「煩悩を断ぜずして」とは、煩悩の身の救いを、理知に依(よ)って解釈した説明語ではなく、どうすることもできない煩悩の「大切な意味」に覚醒(かくせい=迷いからさめること)させられた驚きの一言! 自覚語なのです。その意味でそれは、そのまま南無阿弥陀仏の喚(よ)び声であったと仰(あお)ぐほかありません。
だからこそ「涅槃を得る」と、涅槃(人生の完全燃焼)に方向づけられた生活から、煩悩の身を照らしだす「光」(涅槃)を、煩悩にまみれる生活の場でいよいよ聞き直していく歩み、挙足(きょそく=足をあげること)一歩が始まるのです。「転悪(てんあく)成徳(じょうとく)」(悪を転じて徳と成す)とは、その歩みこそ救いそのものであることを表しています。
気づいたら非婚のみちを歩んでいたという60代半ばの女性Iさんの次の述懐(じゅっかい=心中のおもいを述べること)は、このような「不断」の世界の具体的生き様を見せてくださっているようです。
「仏法とは私にとって何なのか」と問われます。何時も漠然(ばくぜん=ぼんやりして、はっきりとしないさま)とした「不安」を抱(かか)えて生きてきました。そしてそれがいよいよ今、「事実」となって私に問いかけてきます。聞いた仏法を自分の心に引き寄せ、この現実を何とかしたいという思いいっぱいの毎日です。でも、私はこの自分の心に湧(わ)き上る「不安」や「恐れ」でしか、私にとっての「仏法」を問うことも確認することも出来ません。そしてこの思いが私を聴聞(ちょうもん)へと押し出してくれます。聴聞いたします。
(2017年・年賀状。原文のまま)
ここで、家庭の問題が動機となって仏法に出遇(であ)われた、団塊(だんかい)の世代(=(他世代に比し人数が特に多いところからいう)日本で1947~49年のベビーブーム時代に生まれた世代)の女性Kさんから、かつていただいたお便りに書かれていた、次の言葉が想起(そうき=過去のことをおもいおこすこと)されます。
はからいの/すたらぬままに/歳が過ぎ
はからいのすたらぬ/この身のままに/歳が発つ
はからいの心は/つねに変わらねど
はからいのすたらぬ/このわれをこそ/聞くあゆみ
また次の方ですが、教職を定年で退職され、現在お寺の総代(そうだい)をされているというTさんは、在職中から、職場での問題がきっかけとなって親鸞聖人の教えに向き合われた。そんなある時、告白された言葉に痛くひきつけられた私は、今もその言葉を憶念し、歩む糧となっています。
親鸞聖人の教えにふれて、自分のこれまでの価値観とは異質なもう一つの価値観があったことに、とても驚いた。いま一つは、人生とはこんなものだと生悟り、なかばひらき直っていた自分に、生きていく一つの緊張感があたえられていくことは、とてもうれしい。
池田 勇諦(いけだ ゆうたい)
1934年生まれ。同朋大学名誉教授。三重教区西恩寺前住職。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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◎あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話なりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今年の法語カレンダーは昨年に引き続き親鸞聖人のご著作の中からお言葉を頂戴しています。ひと月にひとつの言葉を味わいながら一年を送っていきたいと存じます。