2018年10月の法話
[10月の法語] 煩(ぼん)は 身をわずらわす 悩(のう)は こころをなやますという Bonnō means earthly desires , 『唯信鈔文意』 |
[法話]
「主客転倒(しゅかくてんとう=事物の大小・軽重などを取り違えること)する」という言葉があります。ご主人とお客さんの立場がひっくり返るという意味です。ご主人はもてなす側であり、お客さんは接待を受ける側です。この意識がひっくり返ると奇妙な話になりますし、時には喧嘩(けんか)の原因にもなるのです。やって来たお客さんが家の中に入るなり「粗末(そまつ)で汚いところですが...」などと言ったら、ご主人に喧嘩を売ったようなものです。この言葉はご主人がへりくだって(内心思ってなくても)使う言葉です。
さて、親鸞さまの師である法然さまが「煩悩(ぼんのう)をば心のまら(客)人とし、念仏をば心のあるじ(主)としつれば、あながちに往生をばさえぬ也(『真宗聖教全書』第四巻)」というお言葉を遺(のこ)してくださいました。現代語に訳すと「煩悩(自分の心)を人生のお客さんとして、念仏(阿弥陀さまのお心)を人生のご主人として生きてゆくならば、間違いなく(お浄土を目的地とした)豊かな人生を歩むことができるでしょう」というような意味になります。逆に言えば「煩悩をご主人にしたら、空(むな)しい人生になるよ」ということです。
いつの時代にもご主人さまは「お仕(つか)えする対象」です。煩悩とは自己中心的な「自分の思い通りにしたい」という心のことですから、そのような心に自分の人生を委(ゆだ)ねてしまうことになります。「自分の思い通りにしたい」という心は、必ず「思い通りにならない世界」を生み出してゆきます。自分の思い通りにならない世界は、怒りと愚痴(ぐち=道理にかなっていることとはずれていることの区別のつかないおろかさ)の人生です。そして、それによって自分自身が様々な苦悩と涙の坩堝(かんか=るつぼ。種々のものが入りまじった状態のたとえ)に堕(お)ち込まなければなりません。
そのことを親鸞さまは「煩は身をわずらわす 悩はこころをなやますという」とおっしゃっています。それに対して念仏とは阿弥陀さまのお心の表れですから、お念仏をご主人にするということは「阿弥陀さまのお心にお仕えし、そのお心を私の人生にとって本当に尊いもの」として生きてゆくことになります。
お釈迦さまは阿弥陀さまのお心を「大慈悲の心なんだよ」と教えてくださいました。それは「あなたが幸せになることが、私にとっての何よりの幸せだから、私は自分の幸せよりあなたの幸せを先にせずにはおれません」というお心です。
東日本大震災の後、現地で働くボランティアの人々の姿が、幾度(いくど)となくテレビに映し出されました。その中で特に私の心に強く残っているのが、会社の有給休暇をすべてボランティア活動に使っているという男性の取材をした記者への答えです。
「どうして、そうまでしてボランティア活動を行うのですか」
と尋ねると、その男性は、
「被災された方々の苦しみを考えると、家で何をやっていても楽しくないんですよ。ここの方々の笑顔が今の私の生きがいです」、
と答えたのです。私はこの言葉を聞いて強く心打たれると同時に、自分の心のあり方を深く問われたような気がしました。
田中 信勝(たなか しんしょう)
浄土真宗本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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◎今月の法話に関係する一文を以下に掲載します。参考になさってください。
「自分の幸せだけを追求する人」は、その希望を失って絶望するときが来ます。しかし「他者の幸せを願って生きる人」には、どんな絶望的な状況の中でも、必ず生きる目標が設定され、勇気と希望が湧(わ)いてくるはずです。人びとの痛みを自分の痛みとして引き受け、人びとの悲しみを自分の悲しみと実感する「悲の心」は、同時に人びとの幸せを自分の幸せと思える「慈の心」となって、私どもの「いのち」を充実させてくれます。仏教徒は、それを「菩提心(ぼだいしん)」と呼んで仏道の基礎としてきました。
(『縁起と地球環境』(青木敬介著 2014年 自照社出版)の中、梯 實圓(かけはしじつえん)先生の序文より)