2018年2月の法話
[2月の法語] 信心のさだまるとき 往生またさだまるなり At the very moment that shinjin is settled, so is birth. 『末燈鈔』 |
[法話]
「鰯(いわし)の頭も信心から」ということわざを聞かれたことがあると思います。この言葉はとらえ方によって、いろんな解釈ができますよね。「鰯の頭でもちゃんとした信仰心があれば立派なご本尊になるのだ」とも読めますし、「神も仏も、鰯の頭も一緒だよ。要は気持ちの問題」とも読めます。
この言葉は複数の語源(ごげん=個々の単語の成立・起源)情報によると、昔ある地域で節分になると家の入口にヒイラギの枝に鰯の頭を刺したものを飾(かざ)る風習があったそうです。なぜそのようなことをするのかと言えば、人類最大の悪鬼神である「疫病神(やくびょうがみ=疫病を流行させるという神)」が家の中に入ろうとした時、ヒイラギのトゲに刺さり、鰯の腐った悪臭に驚いて逃げ去って行く、と考えられていたからだそうです。
いま聞けば間の抜けた笑い話のようですが、医学も科学もあまり発展していない時代には、病魔に襲われるということはそのままが死を意味していたのでしょう。お寺にある古い過去帳には幼い子どもたちの死が頻繁(ひんぱん=ひっきりなしに行われること)に出てきます。その文字を見ていると、この子の親たちはどれほど辛く悲しかっただろうか、とその時に思いを馳(は)せてしまうことがあります。当時の人々の生活は、いつも疫病神との戦いであったのかも知れませんね。
さて、話を「信心」に戻すことにします。「信心」という言葉を普通に日本語で読めば「信ずる心」となります。つまり、「私が神仏を信ずる心」が信心なのです。ですから、そこには「私の心の有りよう」が常に問題となってきます。一生懸命なのか、いいかげんなのか、いつも有り難いと思っているのか、思っていないのか...などです。
自分の心を誤魔化(ごまか)さず真面目(まじめ)に生きている人にとって、これは大変なことです。特にそんな自分の心が「救いの条件」ともなれば、ギブアップ間違いなしです。私ごとで恐縮ですが、夫婦喧嘩している最中などに〝仏さまって有り難いなあ〟などと考えている余裕は全くありません。どうやって敵を打ちのめすか、という心でいっぱいです。終戦後に〝またやってしまった〟と自分の情けなさを悔(く)やむことしきりですが。
さて、親鸞さまは「信心のさだまるとき 往生またさだまるなり」とおっしゃいました。親鸞さまがおっしゃる信心とは「信(まこと)の心」のことです。それは嘘偽(うそいつわ)りにまみれた私の心ではなく、清らかな「仏さまの心」のことだとおっしゃるのです。その清らかなお心の仏さまが、
「あなたの苦悩は私の苦悩なのだから、その苦悩の泥中(でいちゅう=どろのなか)に私も共に身を沈め、あなたを抱きとり、死を超えた豊かで安らかな真実なる人生(お浄土への道)を歩ませよう」
と私の中に届いているのだと教えてくださったのです。
そして、そのことに気づいた歓びの心も「信心」と呼びます。なぜなら歓んでいるのは私ですが、歓ばせているのは「仏さまの心」なのですから。
田中 信勝(たなか しんしょう)
浄土真宗本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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[註]:『末燈鈔(まっとうしょう)』
親鸞聖人の晩年の法話と各地に点在する聖人の書簡を収録した書物。正慶二年(1333)、従覚(1295~1360)がそれまでの伝本を訂正して編集したもの。二十二通より成る。『末燈鈔』という書名は「末の世を照らす燈火(ともしび)のような書物」という意味。
◎今年は例年になく厳しい寒さが続いています。どうぞ体調に気を付けてお過ごしくださいますようお念じ申し上げます。合掌