松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2017年10月の法話

[10月の法語]

ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし

 All should say Namo Amida Butsu constantly, whether they are awake or asleep.

[法話]

もう二十年近く前に往生した私の祖父ですが、生来(せいらい=生まれつき)耳が遠かったのと、マイクのない時代に育った布教使(ふきょうし=宗教を広めるために派出される人)ということもあってか、とにかく人並みはずれて声が大きい。その声でよくお念仏をするのです。相撲を見ながら「ナンマンダブ」、トイレから戻ってきて「ナンマンダブ」、立ち上がる時「どっこいしょ」と言わずに「ナンマンダブ」。いちど、二人で飛行機に乗った時も、座るやいなや大きな声で「ナンマンダブ」です。その時ばかりは、一斉に周りから痛いほどに視線が刺さってきて、私は恥ずかしさのあまり、思わず他人のふりをしてしまいました。何でこんなにお念仏をするのか、私は小さい頃、不思議で仕方ありませんでした。

 

さて、今月のご和讃(わさん=仏の功徳をほめたたえる歌)をすべて示せば、次の通りです。

弥陀大悲(みだだいひ)の誓願(せいがん)を ふかく信ぜんひとはみな

  ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし

(『註釈版聖典』六〇九頁)

 

阿弥陀さまの「必ずお念仏する者に育てて救う」という「大悲の誓願」を、決定的に受け止めた人は、「ねてもさめても」区別なく、お念仏するがよいというご和讃です。

ところで、私たちはいつから「母」という女性を「お母さん」と呼ぶようになったかを覚えてはいません。しかし、なぜそう呼ぶようになったのかは、はっきりしています。その女性が先に「私がお母さんよ」と名告(なの)ったからです。

 

このことについて、私の先輩である北嶋文雄師が次のようにおっしゃっていました。この「お」とか「さん」という言葉は、そもそも「呼ぶ方」が付ける尊称であって、「名告る方」がそれを付けて教えるのはおかしいはずだと言うのです。しかし名告る方が、呼ぶ方の立場になって、それをあえて付けて自分を知らせる所に「自分をお母さんと呼び、たよって生きていってほしい」という親心があるのだと、教えていただきました。有り難いことだと味わわせていただいたことです。

 

お念仏も同じですね。名号(みょうごう=仏・菩薩の名。尊号)とは名前ですから、本来は「阿弥陀仏」のみを指すはずですが、「まかせる」という意味の「南無」まで付けて「南無阿弥陀仏」で名号と言います。阿弥陀さまが、「南無」まで付けて「われ《阿弥陀仏》にまかせよ《南無》」とお名告りくださったから、私たちは「《阿弥陀仏》さまにおまかせします《南無》」と、いつのまにかその救いを受け入れ、『ナンマンダブ」とお念仏する者に育てられたのです。

 思えば、祖父はあれだけいつでも、阿弥陀さまのお慈悲を感じながら、人生を歩んでいたんだなと感心します。あの大きな声のお念仏を、恥ずかしいと思った時もありましたが、今では、祖父ほどにお念仏の出ない自分こそ、むしろ恥ずかしいと思うまでになってきました。

 

今月のご和讃を、もう一度味わってみてください。

龍谷大学准教授  井上 見淳(いのうえ けんじゅん)

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎厳しかった夏の暑さもいつしか遠ざかりさわやかな季節となってまいりました。秋は何かと物思うことの多い季節です。阿弥陀さまの願いの中で生かされ日日を送ることに感謝しつつ「南無阿弥陀仏」とお念仏させていただきたいと思います。合掌。

 

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