2017年9月の法話
[9月の法語] 願力無窮(むぐう)にましませば 罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)も おもからず The power of the Vow is without limit. Thus, even our karmic evil, deep and heavy, is not oppressive. |
[法話]
この和讃をいただく時、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』(『観経』)の韋提希(いだいけ)の姿が重なります。『観経』というと私の脳裏に今もはっきりと刻まれていることがあります。一九七七年、同朋会運動十五周年の総括(そうかつ)をとおして、初めて坊守に視点があてられ、次代を担(にな)う坊守を育てようとの施策のもと、『現代の聖典』をテキストに「真宗の女性観」というテーマの講義が「昭和世代坊守会」として各教区で開催されました。毎月個人名宛での案内、そして『真宗聖典』を持って学習会に臨むのは私にとって初めてのことでした。それだけに毎月一回のその日が待ち遠しく感じられたものです。今思えば私にとって真宗の教えに出遇う大事なきっかけでした。講義が進むにつれ、直感的に韋提希は私だと感じておりました。それ以来いつも何かことが起こると韋提希に帰り続けて問いをいただいて今に至っています。
韋提希は生活者として常に「善人たらん」として生きようとしてきました。それゆえに、ことが起こると責任は私にはないと他者に責任を転嫁して、こんなところは嫌だからどこかへ行きたいと願います。『観経』に説かれていることに沿ってみていくと、韋提希はクーデターを起こし父親を殺す息子に幽閉されてしまい、今までよしとしてきたものが何一つ役に立たなくなってお釈迦様に救いを求めます。そして目の前に立っておられるお釈迦様を拝して、思わず「自絶瓔珞(じぜつようらく=身に着けていた地位や名誉をあらわすものをすべて自ら脱ぎ棄て)」、はじめて素(裸)の自分に立てた時、口を突いて出たのは愚痴でした。「私は何か悪いことをしましたか?何で私がこんな目に遭(あ)わなければならないのでしょうか。私の息子も悪いかもしれないが、息子を唆(そその)かした友だちが悪い。しかもその友だちはあなたのいとこでしょう。いとこの一人も教化できなくてお釈迦様といえるのですか。私はもうこのような世の中は嫌なので、どこか清らかな世界に生まれ変わらせてください」と、恐れ多い存在として 見ていたお釈迦様の前で愚痴のありったけを尽くしました。そうして愚痴を尽くすと逆に自分に問いが生まれてきました。私は一体何を願って生きているのだろうと。その問いを抱いてお釈迦様が見せてくださる世界を見ていくうちに、「私はやはり罪を犯した息子と共に救われる世界に生まれたい」と願う女(ひ)性(と)ととなっていきます。
お釈迦様もまた、韋提希が自分に目覚めて、罪を犯した者と共に救われていく世界を求めていくその姿を目の前にして、これまで法座で仏になる法を説いてきたが、私にとって仏とは?という問いが生まれてきました。このことは私(凡夫)と仏の関係は決して上下関係ではなく、水平な位置にあることを教えてくれているのではないでしょうか。凡夫の問いがお釈迦様を開いていく。そしてその教えを説いてくださる。だからこそ凡夫であると教えられるその教えを信じることができるということではないでしょうか。このお釈迦様と韋提希の出遇いによって開かれたのが浄土教であると教えられています。
この和讃はあらためて『観経』が開いてくれた浄土という世界を信じ、浄土の願いに帰り続けることによって「罪業深重」としての我が身を生きることができるということを感動をもって表現してくださった言葉としていただいています。
見義 悦子(みよし えつこ)
1947年生まれ。富山教区正覺寺副住職。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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[註]『観無量寿経』
浄土三部経の一つ。王舎城(おうしゃじょう)に起きた事件を契機に王妃である韋提希夫人が苦悩なき世界を求めたのに応じて、釈尊(釈迦)が浄土に往生するためのさまざまな方法を説く。だが結局はいずれの方法をもってもかなわぬ凡夫のために「他力念仏」の一行をすすめる。
[今月の法語について]
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず
(現代語訳)
阿弥陀如来の本願のはたらきはきわまりなく、どれほど深く重い罪も障(さわ)りとなることはない。阿弥陀如来の智慧のはたらきは果てしなく、散り乱れた心で勝手気ままな行いをするものであっても見捨てられることはない。