松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2017年8月の法話

[8月の法語]

金剛心(こんごうしん)は菩提心(ぼだいしん)この心すなわち他力なり

The diamondlike mind is the mind aspiring for enlightenment,

and this mind is itself Other Power.

[法話]

かつてご法話で、「美しい月に見とれているこころには、ただ月があるだけです」と聞かせていただきました。なるほど。確かにそうです。月に見とれていると言いながら、そこで自分のこころの状態がどうだとか、見ている姿勢がどうだとか気にするのは、月を見ているふりをして、自分の姿を確認しているだけでしょう。

 

今月のご和讃を全て示せば、次の通りです。

 

信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心

金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり

(真実の信心は、すなわち一心(=ひたむきな心、乱れなき心)である。一心は、決して壊れることのない心すなわち金剛心である。金剛心は、さとりを求める心すなわち菩提心である。この心が、そのまま阿弥陀如来のはたらきすなわち他力である。)

(『註釈版聖典』五八一頁)

 

「われにまかせよ、必ず救う」という勅命(ちょくめい=天皇の命令、ここでは阿弥陀如来の御教え)を受け入れてしたがう心を「信心」といい、さらには「信楽(しんぎょう)」ともいいます。ですから、信心といっても、何か別にこころをつくり上げるというのではなく、ただ阿弥陀さまのおおせを、疑いなく聞いているという状態(信楽)があるだけですから、信心とは、信楽の「一心」だと言われているのです。そして、その信心とは、ダイヤモンドのように決して壊(こわ)れないこころであるというので、「金剛心」とも表現され、またそれは「菩提心」であるとも言われています。菩提心とは、自分のみならず、他者をも一人のこらず、安楽なる涅槃(ねはん=煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地)の領域へ導かんとする、仏道を歩む者に必須(ひっす=必ずなくてはならないこと)の志です。

 

と、こう説明されましても、自分のこころを思うと、なんとも心許(こころもと)ない(=おぼつかない。あるかないかの程度である)ですね。すぐフラフラする私のこころを指して、金剛心と言われましてもね。また「自分さえよければいい」、「少なくとも自分の状態がよくないと、どんな人にも優しくはできない」というこのこころを指して「菩提心」とか言われましてもね。どこをどう探しても、ひっくり返して振ってみても、そんなこころがどこかにあるようには思えません。

 

そうです。自慢じゃありませんが、私たちには、そんなこころはひとかけらもありません。だから親鸞聖人は、私たちのこころを当てにせず、阿弥陀さまを当てにしなさいと言われるのです。私たちのこころに生じている「死ぬ時とは、阿弥陀さまによって、浄土に生まれさせていただく時」という信心は、人間からはいくら考えても出てはきません。このこころは、阿弥陀さまが万徳(まんとく=多くの徳行。多くの善行)を込めて呼びかけられる南無阿弥陀仏の名号(みょうごう=仏・菩薩の名。尊号、ここでは南無阿弥陀仏の六字のこと)からしか起こり得ないのです。だから「この心すなはち他力なり」と最後に讃(たた)えられているのです。このご和讃は、この最後の一句がとても大切です。

 

阿弥陀さまの金剛心といわれる真実心や、一人ひとりを見抜いて必ず万人を救うと言われた大菩提心が、名号(南無阿弥陀仏)となって私たちのこころに響きこんでくる時、不確かな私のこころに、確かな阿弥陀さまの智慧と慈悲とが信心となって宿(やど)ります。私たちは自分のこころの有様(ありさま)を気にするのではなく、夜空に美しく輝く月がこころをやさしく満たしていくように、広大なる阿弥陀さまの慈悲をただただ仰(あお)ぎ続けて、その光の中に生きていきます。

 

今月のご和讃を、もう一度味わってみてください。

龍谷大学准教授  井上 見淳(いのうえけんじゅん)

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎ 今月はお盆です。お盆は正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。古いインドの言葉の「ウランバナ」の音訳で、「倒懸苦(とうけんく)」、つまり「逆さ吊りの苦しみ」を意味します。『盂蘭盆経』というお経には、わが子ゆえに餓鬼道に落ちて倒懸の苦しみにあえぐ母親を必死に助け出そうとする目蓮尊者(もくれんそんじゃ=十大弟子の1人)がお釈迦様の教えに出遇って救われたという因縁が説かれています。

 浄土真宗では盂蘭盆会(うらぼんえ)のことを歓喜会(かんぎえ=よろこびのつどい)とも申します。またお盆に仏前に供物・果物等を供えることは致しますが、他宗のように特に精霊棚を設けたり、供物や灯ろうを流したりは致しません。浄土真宗では一切の仏事は「聞法」と「報恩」の営みだからです。故人のご縁によってお盆を迎え、尊いみ教えに出遇うことのできた身のしあわせを喜び、御先祖に感謝のまことを捧げるのが、真宗門徒のお盆なのです。(真宗協和会「お盆のしおり」より抜粋)

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