松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2017年5月の法話

[5月の法語]

大信心は仏性(ぶっしょう)なり 仏性すなわち如来なり

The great entrusting heart is itself Buddha-nature,

Buddha-nature is none other than Tathagata.

[法話]

五月になると、義父である前住職の入院を思い出します。「ちょっと診(み)てもらう」と出かけた結果が末期癌(まっきがん)でした。家族はパニック、お寺はどうなるのか...。新米住職の私は途方に暮れました。そんな中、親友の父もまた癌であると知ります。すると、状況は変わらないのに、「私だけではない」と知って、少しだけ落ち着くことができました。

 

親鸞聖人は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』で、アジャセ王子とお釈迦様の出遇(であ)いを紹介されています。

アジャセは父ビンバシャラ王を殺害しますが、猛烈に悔(く)いて病に倒れます。何より「この苦しみは父王殺害の報(むく)い。地獄へ落ちる序章に違いない」と怯(おび)えるのです。

 

お釈迦様は、そんなアジャセにさまざまなことを説かれます。その一つは「確かにそなたの罪は重い。しかし、すべての人は繋(つな)がりの中を生きている。私もその一人。そなた一人が地獄へ行って済まされる罪などない」という呼びかけです。

 

ここで、お釈迦様が説かれる繋がりという言葉には二つの意味があるといわれます。

 

一つは私に繋がる歴史、私が生まれる背景です。ある日突然無垢(むく=煩悩(ぼんのう)を離れてけがれのないこと)な私が生まれてきたのではありません。そこには遥(はる)かに繋がる私への生命のバトンがあります。少し乱暴に言えば宿業(しゅくごう=現世に報いを招く原因となった前世の善悪の行為)です。それは前世が云々(うんぬん=一言では言い切れないさまざまのこと)という無責任なことではなく、何代にも渡る人生という営みの引き継ぎを意味します。その最先端に私がいるのです。縦の繋がりです。二つ目は出遇いによる繋がりです。歴史をもつそれぞれの人生が縁によって重なっていくのです。横の繋がりといえます。

 

この縦と横の繋がりで綿々(めんめん=長くつづいて絶えないさま)と紡(つむ)がれるのが私たちの人生ではないでしょうか。まさしく業縁存在(ごうえんそんざい=人間は縁によっては何を考え、何をしでかすかわからない存在であること)です。そして、お互いに絡(から)み合い、一人では背負いきれない社会という共に生きる時代を織っていくのです。

 

さて、教えを聞いたアジャセはすぐに頭(こうべ)を垂(た)れます。そして「私一人が苦しいと思っていました。しかし、そうではなかった、お釈迦様も私と繋がっておられました。今私が進むべきは、多くの人と共にお釈迦様の教えを聞いていく道です。たとえ地獄に落ちたとしても」と思いを述べます。

 

それは、地獄の恐れから解放され、アジャセが自分の人生に目を向けた瞬間でもあります。そしてアジャセは、この思いを「無根の信(=煩悩心より生じた信でないこと)」と名づけました。自分の姿を言い当てられ、今まで考えもしなかったお釈迦様を敬(うや)まう心が芽生えたのです。

 

それは、真如(しんにょ=真理)より来たはたらきが大いなる信心として成就(じょうじゅ=できあがること)し、アジャセの上に仏性(仏となるもの)として開花した瞬間でもあります。囚(とら)われていた思い込みが見事に破られ、きっとアジャセの目の前には、広々とした世界が広がったことでしょう。

 

さて、前住職が還浄(げんじょう=浄土に還(かえ)ること)して十年程になりました。多くの方に支えられなんとか住職として勤めていますが、やはり何かことが起こると「なぜ私だけ」と思います。繋がりの世界を生きながら、自分勝手に苦しみを作っているのでしょう。私こそ仏説を聞き続け、かたくなな思いを破られる必要があるようです。

山雄 竜麿(やまお たつまろ)

1965年生まれ。大阪教区以速寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[今月の法語について](以下の和讃後半を抜粋)

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう

大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり

(現代語訳)

(如来の心が信心として凡夫にいたり)信心を喜ぶその人を如来(仏)と等しいと説いておられます。如来から賜(たま)わる大信心が仏性(仏の心、仏の本性)だからです。そして仏性こそは我をこえた、如来であるのです。