2017年3月の法話
[3月の法語] 一念慶喜(きょうき)するひとは 往生かならずさだまりぬ People who attain the one thought-moment of joy, their birth becomes completely settled. |
[法話]
2011年に起こった東日本大震災、陸前高田で被災されたその人は、あの時から十四カ月経過してもなお癒されぬ心の傷を抱えたまま私に語りかけていました。
「震災直後はなんといっても衣食住の確保です。全国から寄せられた支援は言葉に尽くせないほど本当にありがたかった。それは自らの中に生きるということが肯定されたものにとっての光でした。津波は家族、友人あるいは恋人同士のその繋(つな)いだ手を無残にも引き離し、家や職場、思い出の場所を一瞬にして破壊し飲み込んでいった。
震災は、今日そしてこれからも生きていこうとする人の生命を奪い、遺族には生き残ったが故の悲痛をもたらした。共に生きる人を失い自らの中に生きるということが否定される体験の中、衣食住を支えられるのは本当は辛(つら)いことなのです。支援はありがたかった。しかし、そういう生きる意欲を失った人もいることを知ってほしい。衣食住は生活のうえで無くてはならない横糸です。でも人生を貫(つらぬ)いていく縦糸がなければ、生きていくことは虚(むな)しくなります。苦労はできます。復興のための努力も厭(いと)いません。でもそれも横糸なのです。そのことを含め、この悲しみさえも貫いていく人生の縦糸を、生きる光を、一緒に考えてください...」。
打ちのめされた言葉であり、忘れられない言葉となりました。
人とは、その生において一度きりの代替不能(だいたいふのう=他のもので代えることができない)な、やり直すことも許されない唯一無二(ゆいいつむに=ただ一つだけで二つとないこと)の体現者(たいげんしゃ=思想・理念などを具体的なかたちに現している者)であります。それ故、その境遇(きょうぐう=身の上)を担(にな)い引き受けていくものは誰でもない我一人なのでありましょう。しかし、その覚悟と勇気はどこから来るというのでしょうか。
北海道にはトド松という樹木が多く生息しています。その木は氷点下二十五度を下まわる極寒にさらされると凍裂(とうれつ=大木が凍結して、弾けるように裂(さ)けること。霜割れ)という現象を起こします。まさに泣き叫ぶがごとき音を発し、その幹が大きく裂けていくのです。息絶えると思われるその樹木は、春になると体内から樹液を出し自らを修復(しゅうふく)し、傷跡を抱(かか)え生き続けるといわれています。
トド松に限らず樹木は、振りかかるすべてを身に受けるが故に傷だらけです。嵐の日も厳しい寒さも受けとめながら、その傷をコブに変えるというのです。
実は人もまた凍裂するのでありましょう。身が裂けるような思い、心が凍(こお)るような出来事が人生には起こります。その中で凍(こご)え悶(もだ)え傷だらけになりながらも耐えて生きてきたのでありましょう。
樹木は大地に根を降ろすことにより枝が折れようと幹が裂けようとも「いのち」のままに生き続けます。しかし、その根にとって地中には「障(さわ)り(=さまたげ。障害)」となる大きな堅(かた)い岩や石があります。樹木はその「障り」を避け根を張るのではなく、むしろその「障り」を抱きしめることにより、自らがそこに立つ支えや力としているというのです。陸前高田の「奇跡の一本松」は我々に何を語りかけていたのでしょうか。
「樹心仏地(じゅしんぶっち)」。心を弘誓(ぐぜい=すべての人々をすくいとるという阿弥陀如来の広大な誓願、本願)の仏地に樹(た)てることこそが人生の縦糸であり、そして自らの境遇にあって我が心の痛み悲しみを抱きしめる覚悟と勇気をたまわる。それを一念慶喜(信心のよろこびに目ざめたその一瞬)というのではないでしょうか。生きるということが全肯定される一筋の光にふれた清浄(しょうじょう)なる意欲なのでありましょう。
金石 潤導(かねいしじゅんどう)
1967年生まれ。北海道教区開正寺住職。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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[今月の法語について](以下の和讃後半を抜粋)
若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかいゆえ 信楽(しんぎょう)まことに
ときいたり(=時至り) 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ
(『浄土和讃』二十六首目)
(現代語訳)
「もし一切の衆生が浄土に生まれる(往生する)ことができないようなら、私はさとりを開かない」と阿弥陀如来が本願に誓われているので、真実の信心を得たまさにそのとき、本願を信じ喜ぶ人は、浄土に往生することが間違いなく定まるのである。