松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2016年11月の法話

[11月の法語]

さとりの国(くに)にうまるるは ただ信心(しんじん)にきわまりぬ

It is through shinjin alone that we are born in the Land of Awakening.

[法話]

「さとり」というと一般にはとても高邁(こうまい=気高く、すぐれているようす)で、普通の人には手が届かない境地(きょうち)だと思われがちですが、私は仏教の「さとり」は、本来の「学び」にたいへん近いものだと受け取っています。

 

私たちは往々にして、「学ぶ」とは、先生が有している知識や技術を、授業料を払う対価として生徒が手に入れるという「取引」のようなものだと考えがちです。しかしそうではないと、哲学者の内田樹(うちだたつる 1950~ 神戸女学院大学名誉教授)氏は『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)においてあかします。

 

「取引」では、受け手は自分がこれから何を手にするかをあらかじめ知っています。コンビニのレジで百円を払ったのに対して、店員が何を渡してくるかわからないということはありえません。しかし「学び」というのは、事前どころか、手にしてもなおそれが何かが分からないものを受け取ることなのです

 

価値がわからないものを渡された時に人はどうするでしょう。価値がわからないので自分には不要と考えるか、価値がわからない自分を未熟と考えてとりあえず受け取ってみるか。「尊敬できる先生がいなくなった」と嘆(なげ)いている人は前者に重なるような気がします。

 

「取引」と「学び」の違いは、人と人とが関係する上でも同様でしょう。人と会話をすることを私たちは、AさんからBさんに情報を移動させることと単純に考えがちです。でも、自分が話をしていた相手から「わかったわかった」と返されると、不愉快になりませんか。それは、「わかった」というのが「もうこれ以上話さなくていい」という断絶の意思表示になることもあるからです。

 

つまり私たちが人と相対するとは、「わからない」状態を喜びとして重ねていく作業とさえ言えそうです。「私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに『誤解の幅』と『訂正への道』が残されているから」(同書)なのです。

 

ここでの「学び」は、聴聞(ちょうもん=説教を聴くこと)の場においてより鮮明になります。聴聞することは自らの殻(から)が破れることです。聴聞の価値を決めるのは自分ではありません。何が有用かという価値観を揺(ゆ)さぶられる体験が聴聞です。ある先輩は念仏についてこう喝破(かっぱ=邪説を排し真理を説き明かすこと)しました。「念仏は殻を纏(まと)った自らが崩壊する音である。新たな人生の産声である」。この自らの崩壊の音とともに学ぶ営みが、浄土真宗の信心といわれるものです。

 

そして、蓮如上人は繰り返しこうお諭(さと)しです。

 

四五人の衆寄合ひ談合せよ。かならず五人は五人ながら意巧(いぎよう=都合のよいよう)にきくものなるあひだ、よくよく談合すべき(『註釈版聖典』1270頁)

(=(法話を聞いた後で)四、五人ずつが集まって、話し合いをしなさい。五人いれば五人とも、決まって自分の都合のよいように聞くものであるから、聞き誤りのないよう十分に話し合わなければなりません。)

 

一句一言を聴聞するとも、ただ得手(えて=自分に都合のよいように)に法を聞くなり(『同』1275頁)

(=わずか一言の御教えであっても、人はとかく自分に都合のよいように聴聞するものである。)

 

間違えてはいけないよ、ではなく、間違うものだから話し合おう、とおっしゃっています。

 

「いつまでもわかりません」。法話会などでよく耳にすることばです。はい、だからぜひもう少しご一緒しましょう。

松本智量(まつもとちりょう)

本願寺派布教使、東京都八王子市延立寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

[今月の法語について]

『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。

速入寂静無為楽 必以信心為能入

速やかに極楽浄土に生まれて窮極の幸(無為の楽)を得るのは、必ず信心によるのである。

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