松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2016年10月の法話

[10月の法語]

まどいの眼(め)には見(み)えねども

ほとけはつねに照(てら)します

        Although we cannot see through our deluded eyes,

the Buddha illuminates us constantly.

[法話]

大切な人との別れは苦しいものである。自分の力ではどうにも解決できない問題に直面する。それはときに私の足を竦(すく)ませ、「この苦しみは誰にもわかってもらえない」という思いから孤独と絶望に沈み込む。何とかしたい。しかしどうにもならない。こんなに苦しい現実なら......と死さえ頭をよぎる。

 

私が医師として働き始め、ある程度自信がついてきたある日。ある難病の患者さんは言った。「どうせ死ぬなら殺してほしい」。私は何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。何とかしたい。病気の原因を解明すべく研究を始めた。しかしその間にも患者さんは亡くなってゆく。

 

研究の傍(かたわ)ら(=あることをする一方で。~のあいまに)診療をする日々。知識と経験が蓄積されてゆく。患者さんのためになることをしているという多少の自負を持ち始めた。

そのとき、ある患者さんは言った。「あなたにはわからない」。打ちのめされた思いであった。いったい私は何をしてきたのか。何と向き合ってきたのか。

 

ご縁があり仏教を学ぶ機会をいただいた。そこで耳の底に留(とど)まる患者さんの言葉の意味に気づかされる。たしかに病は治したい。しかしその奥にさらに問いがあった。その病によってこれまで生きる依(よ)り所であったことが崩(くず)れた。喜べていたことが喜べなくなった。

あのときの言葉は、すべてが崩れ、ただ一人の人間として放り出されたとき、それでも生き生きと生きてゆける依り所があなたにはあるのか、という問いだったのではないか。あなたは、人生の意味は すぐに崩れるという非常を知りながら、その現実から逃げてばかりで、たしかな依り所を求めていないではないか、と。

 

辞めようと思っていた病院の勤務を少しでもつづけることにした。医療の現場での問いを仏教にたずね、仏教の学びを現場で確かめたいと思った。そんなある日。「もう何もかもおわりにしたい」。そう語る難病の末期の患者さんに対して、仏教の学びを言葉にしたいと思い、おおよそこのようなことを私は言った。「生まれてきてよかったといえる道を見つけましょう」と。それを聞いたときの悲しそうな眼が今も脳裏に残る。その眼はこう言っているようだった。

 「道を見つけようとも思えないから苦しいのだ。やはりあなたはほんとうに悲しむべきことをわかっていない」。

 

私は私で悲しみ、あなたはあなたで悲しむ。そこには交わりがない。どこまでも孤独である。私はいつまでも私の悲しみをほんとうだと思い、何か目の前の道とは別の、特別な道をほんとうだと思って独りよがりに求め、結局世界を分断していた。あなたと私の奥底に横たわるほんとうの悲しみは互いに響き合い、「ああ、やっとこの苦しみをわかってくれた」。そういって安心して共に苦悩し共に 生きられる場所を開く。その悲しみが開く広い世界は已に開かれている。なぜなら皆、苦悩の中を前に進んできたのだから。そこであなたはずっと待ってくれていたのだ。しかし私はそのことに気づかず、気づいてもまたすぐに忘れ、今もあなたの横を通り過ぎようとしている。

岸上 仁(きしがみ ひとし)

1976年生まれ。大阪府在住。神経内科医。大阪教区受念寺衆徒。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[今月の法語について]

『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。

煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 煩悩のために目がくもって見えないけれども、阿弥陀如来の大慈悲は常に私を照らしてくださっているのです。

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