2016年9月の法話
[9月の法語] 一生悪(いっしょうあく)を造(つく)るとも 弘誓(ぐぜい)に値(あ)いて救(すく)わるる Although we might do wicked deeds throughout our lives, upon encountering the Primal Vow, we are able to be saved. |
[法話]
ある万引き事件を起こした高二女子が書いた反省文を紹介します。
「このたび私は、万引きという、大変恥ずかしいことをしてしまいました。謝って許されることではありません。謹慎している間は、自分自身をしっかりと見つめ、自分がいかに甘く、駄目な人間であったのかがよく分かりました。私を大切に育ててくれている両親だけでなく、暖かく見守ってくださっている先生方の信頼を大きく裏切ることになり、心から反省しています。本当に申し訳ありませんでした」
『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)の著者、岡本茂樹氏は、先の反省文を読んで、書いた子のことが心配になったとのこと。「あるべき姿」の下に抑圧された姿が見えてしまうからです。それがまたいつか爆発すると。
犯罪を含めた問題行動は、理由なしには起こされません。どんなに不合理な行動に見えても、当人なりの合理的かつ正当な理由があるのです。そしてそれは本人自身も気づいていない(気づきたくない)ことが少なくありません。
岡本氏は、刑務所で更生に携わる中で、こう確信するにいたりました。「反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることにならない」「反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っている」(同書より) 岡本氏はまず受刑者たちに、自分が抱えている不満・恨み・怒り・哀しみ・嘆きなどの否定的感情を語らせます。「あるべき自分」の陰に押し込められた「ありのままの自分」を認め、自分の内面と向き合い、自分の心の痛みに気づくことができて初めて、人は他人の痛みに思いを馳せることができるのだと。そして、そのためには、「ありのままの自分」を出せる「場」が必要といいます。
親鸞聖人が書かれた『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』という書物に、
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず
(自力の心を捨てるということは、 大乗・小乗の聖人、 善人・悪人すべての凡夫、 そのような色々な人々、 さまざまなものたちが、 自分自身を是(ぜ=正しい)とする思いあがった心を捨て、 わが身をたよりとせず、 こざかしく自分の悪い心を省(かえり)みたりしないことである。)
(『註釈版聖典』七〇七頁)
という一文があります。仏の喚(よ)び声に身をまかせるということは、悪しき心を小賢(こざか)しく省みないということだ、と。たしかに、反省というのは一見すると、我が身の悪や罪を深く悔いている行為のようですが、実際に反省している自分を思い返してみると、それは自分を免罪するための手続きでしかないことが多いように思います。反省しているのだからもういいじゃないかと。そして自分が為したことを忘れ、また同じことを繰り返します。 反省する前に、まず、自分自身を見つめる。受け止める。それが本当にできるのは、弘誓(ぐぜい=弘(ひろ)く一切衆生を救済して仏果を得させようとする仏・菩薩の広大な誓願)という阿弥陀さまの願いによるすくいの場によってこそです。そこから開かれるすくいは、「ありのままの自分」との和解に他なりません。
松本智量(まつもと ちりょう)
本願寺派布教使、東京都八王子市延立寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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[今月の法語について]
『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
たとえ一生の間悪をつくり続けても、阿弥陀如来の「一切の衆生を救済します」との誓願に出会えば、安養界(極楽の浄土)に生まれて、妙果(立派な結果、この場合は仏の悟り)を体得するのです。