松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2016年8月の法話

[8月の法語]

まどえる身(み)にも信(しん)あらば

      生死(まよい)のままに涅槃(すくい)あり

       When shinjin is awakened in our deluded self,

we realize that birth-and-death is itself nirvana.

[法話]

 今月の法語は、「正信念仏偈(正信偈)」においては曇鸞(どんらん 476~542 七高僧の一人、北魏時代中国、山西省の人)章の「惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほっ)すれば 生死即涅槃(しょうじそくねはん)なりと証知(しょうち)せしむ」(真宗聖典206頁)という偈文(げもん=仏教の真理を詩の形で述べたもの)の和訳になります。「惑染の凡夫」とは、惑も染も煩悩のことであり、煩悩に生活全体が染め抜かれている私たち凡夫のことです。煩悩を離れず嫌わずして涅槃(浄土のさとり)を得ることは信心に因(よ)ることを明らかにされています。

 

さて、「修の意識(賢善精進、向上心)」は、今のままではだめだ、努力が足りない、と今の自分を否定することから始まり、将来に成果を期待します。それだけに、頑張って困難を克服してきた価値意識は捨て難く、人に押しつけては嫌悪され、そしてますます自分の経験の確かさや歩みに執着していきます。

 

弱音を吐かないで頑張ること、人に頼らず我慢すること、人に迷惑をかけないことという価値観は、教育や家庭のしつけ、社会生活を送る上で大切な意識です。しかし見方によっては、人と人とのつながりを疎外(そがい=うとんじ、よそよそしくすること)します。更生支援にも関わっている大学の社会学部の先生が、「相手に対して抱く不快感は、自分の心のなかに植え付けられた価値観が原因となっているのです。自分のなかに、正しいと思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、他者に対して「許せない部分」が増えていきます※1」と指摘されるように、そのような価値意識は瞋恚憎嫉(しんにぞうしつ=いかり、にくしみ、ねたみ)の煩悩を増幅させていきます。この身は人々とともに形成してきた時代社会に無自覚に染め貫かれて生活しています。

 

また社会は優劣・貴賤(きせん=貴いことと,いやしいこと)などの差別的な構造を持っています。「修の意識」が支える社会は、力(経済、権力、立場、能力)のある者の優越性のみが守られ、一方で力のない弱い者は、自己責任であると社会から思い込まされ、あきらめを強いて劣等感を与える社会でもあります。曇鸞大師は「一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき(仏教に帰依した人も世俗の人も真実の依りどころを知りませんでした)」(「高僧和讃」真宗聖典491頁)と平等に帰依すべき世界を喪失(そうしつ)していると述べています。

 

結婚当初、妻から「私が分った己(おの)れは、悪人といっても、人の上に居座(いすわ)って高いところにいて、口だけが悪人と言っている」というある方の言葉を教えてもらいました。自分の考えや経験を絶対化していることに全く無自覚に生きている私たちに、どのような救いが獲得されるのかという課題が、次の「生死のままに涅槃あり」という言葉です。安田理深(やすだりじん1900~1982 仏教学者、真宗大谷派僧侶)師は、

 

業(ごう=善・悪の報いをひき起こす行ない)に悩んでいる者が、一点一画も絶対現実を改変する必要のない救いを見出す。どうにもならない凡夫に、どうする必要もない自覚をいかにして与えるか、これが一乗(いちじょう=仏の悟りに達するための唯一の教え)の仏教を一貫する問題 (安田理深『正信偈講義 第一巻』法藏館)

 

といわれています。本願(すべての人を救い摂るという阿弥陀如来の誓願)に遇(あ)い、如来の大悲心に目覚めるということは、つまり、「どうにもならない凡夫に、どうする必要もない」身の頷(うなず)きが開かれるということです。「修の意識」によって自他を差別して、出遇った教えの言葉でさえも利用して、人間に向けてレッテルをはり、序列化していく道具にしてまで自己を立てようとする生活の相(すがた)が深く悲しまれ、善し悪しに執着して差別せずにはおれない痛ましき愚かな相(すがた)を知らせたもう如来の心に出遇い直さなければなりません。如来の悲しみによって、人間であることの悲しみにまで帰されて、時代社会を超えて時代社会と共に在って、育まれていくわれらがあります。

 

※1岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書

河野通成(かわの みちなり)

1962年生まれ。大分県在住。日豊教区緑芳寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[今月の法語―意味]

たとえ、迷える人々であっても、ひとたび信心の心をおこせば、迷いの中にあっても、そのまま悟りを得る身となることができると気づくのです。