2016年7月の法話
[7月の法語] 往(ゆ)くも還(かえ)るも他力(たりき)ぞと ただ信心(しんじん)をすすめけり Our going and returning come about through Other Power; thus shinjin alone is urged. |
[法話]
私たちがものを食べるということは、どういうことでしょう。
おなかが減っては、仕事にも勉強にもならないから? もちろんそうですね。食べることは、体や頭を働かせる力を作り出す燃料を体に取り入れる作業であるという見方はできます。でも、実はそれだけではないんです。私たちがものを食べることと、車にガソリンを入れることとは実は根本的な違いがあるのです。
私たちが毎日排泄する便。それを食べものかすだと思っていませんか。実は便を構成している固形物の内容は、体内の細胞の老廃物が半分、残りは腸内フローラと呼ばれる細菌類の死骸(しがい)がほとんどで、食べものの残滓(ざんし=のこりかす)は一割もありません。
ネズミに餌(えさ)を与えて、その餌の中のアミノ酸がネズミの体内をどう移動するかを観察した実験があります。素人考えで予想すると、それらは燃料となって体内で燃やされて、燃えかすが排泄されるように思えます。しかし結果は、アミノ酸はネズミの全身に飛び移り、その半数以上がネズミの体の一部になってその場に留まっていたのです。
分子生物学者の福岡伸一氏はこう説明します。
「食べものの分子は、単にエネルギー源として燃やされるだけではなく、体のすべての材料となって、体の中に溶け込んでいき、それと同時に、体を構成していた分子は、外へ出ていくということです」
「食べものの分子そのものが体を一瞬作り、それが分解されて、また流れていく。体というふうに見えているものは、そこにずっとあるわけではなくて、絶え間なく合成され分解されていく、流れの中にあるのです」
「私たちを形づくっている分子は、自分のものであって、自分のものではない」
(『生命と食』岩波書店)
つまり、食べる、ということは極微(ごくみ=それ以上分割できない物質の最小単位)の目で見ると、食料の中から栄養を取りだすためのものではなくて、自分と食料を一体化させ、交換させる作業だということです。自分が壊されると同時に新たな自分が形成される、そのようないのちのダイナミズム(=活力)の中に私たちの食はあるのです。
仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と説きます。どんなものも一瞬でも常ではない、とどまってはいない、というこの教えはまた、とどまっていたい、常でいたいと思う私への厳しいお諭(さと)しでもあります。
確かな私がここにあって、この私を維持するために食事をする。そう考えたら食べものは単なる燃料、モノです。しかしそうではなく、食べるということは、その対象の全存在を受け入れることであり、いのちの只中にいる私であることの一局面であると知らされたとき、食事の際に「いただきます」と頭をさげていた私が、「いただきます」と頭がさがる私に育てられます。
松本智量(まつもと ちりょう)
本願寺派布教使、東京都八王子市延立寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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[今月の法語について]
『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。
往還廻向由他力 正定之因唯信心
浄土に往(ゆ)くのも、仏となってこの世に還(かえ)り人々を救うのも、すべて阿弥陀如来の本願力(他力)によるものであり、必ず仏になる身と定まる(=正定(しょうじょう))のは唯々(ただただ)他力の信心に因(よ)るとお説きになりました。