2016年6月の法話
[6月の法語] ただよくつねにみ名(な)となえ ふかきめぐみにこたえかし Just uttering the Name constantly, allows us to respond to deep compassion. |
[法話]
沖縄県宜野湾(ぎのわん)市の沖縄別院を訪ねる機会があり、その折、別院の方から、沖縄別院の本尊と梵鐘(ぼんしょう=寺院で用いる釣り鐘)は別院設立の際に、ハワイにあったマカレー東本願寺から引き継がれたものだということをお聞きしました。
中でも、現在別院の屋上にある梵鐘は、那覇出身でハワイに移り住み、マカレー東本願寺を設立した僧侶玉代勢法雲(たまよせほううん 1881~1956)氏が作ったものです。
ハワイでは戦時中、沖縄移民の若者もアメリカ兵として戦地に送られたそうです。法雲氏は日本人移民ということでアメリカ政府に拘留され、戦地に送られた若者たちの帰りを、残された家族と共に 待ちました。そして終戦後、梵鐘に、平和への願いを「国富民安兵戈(へいか=武器、戦争)無用」を中心として『仏説無量寿経』の前後の言葉を刻み込まれました。その鐘の響きが沖縄の大地、空に響き渡り続けています。
昨年の大晦日に、沖縄別院の近所に住んでおられる安仁屋眞昭(あにやさねあき おもろ歌唱継承者)さんが、除夜の鐘をつき
除夜の鐘 兵戈無用の響きあり 武器なき国の 平和を願い (ハイサイ沖縄vol. 56)
と、詠(よ)まれました。
悲惨な沖縄地上戦から七十年余りが経ちました。今、あらためて「兵戈無用」の響きとして、伝わり流れていることは「殺してはならない」「殺させてはならない」「戦争はしません」(誓い)と「世の中安穏なれ」(願い)ということ、すなわち「誓願」です。梵鐘に「国富民安 兵戈無用」の文字を刻んだ法雲氏、梵鐘の響きを詠まれた安仁屋さん。二人の中に流れとなって響きわたっている、「誓い」「願い」の意こころを聞くことが大事です。
誓願が具体的に私のところにおいてはたらくのは「名号(南無阿弥陀仏)」です。名号は声であり、聞いて欲しいという願いです。「名は声」として聞こえてきます。
今月の法語にあります「み名となえ」ということについて親鸞聖人は、
名号を称(しょう)すること、とこえ、ひとこえ、きくひと
(=名号を称(とな)えることがわずか十声(とこえ)や一声のもの)
(『一念多念文意』真宗聖典545頁)
とおっしゃいます。み名を称えるというと、私が称えているようですが、実は名を「きくひと」と述べられているのです。
「聞く」ことは、ただ名号を称えるのではなく、その名号をとおして、名号が生まれてくる出処(でどころ)にふれ聞くことです。
仏の教えを聞いてきた人たちの上にずっと響いてきた「誓願」の呼び声、その呼び声に耳を澄ましてみれば、時代や社会状況の混乱の中にあっても、人間の身を生きて、その苦しみの中に聞き開いた教えを言葉にしてくださった人の相が見えてきます。
しかし、人間の願いはどこまでいっても自分の都合や思いを中心として、その時、その時の事に追いまくられ、私や家族の幸せを願いとしています。
仏の願い(悲しみ)は、いつの間にか見失い忘れてしまっている「人間に生まれてきた」事実の中で、かけがえのない人として生まれ、生き続けているそのことに応(こた)えうる生き方をしていますか、と私の存在自体を深く悲しまれ続けています。その悲しみから聞こえてくる声に私の生きる方向と態度を尋ねていくのです。
言葉の本当に意味しているのは響きです。名となった響きが聞こえてきていますか。
相馬 豊(そうま ゆたか)
1957年生まれ。石川県在住。金沢教区道因寺住職。
東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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[今月の法語について]
『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
ただ、ひたすらに南無阿弥陀仏の名号を称えること(声に出して念仏すること)、そのことが阿弥陀如来の大慈悲の御恩に報いることなのです。