松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2016年5月の法話

[5月の法語]

弥陀(みだ)の誓(ちか)いに帰(き)しぬれば

不退(ふたい)のくらい自然(じねん)なり

       When we take refuge in Amida's Vows,

we naturally reside in the stage of non-retrogression.

[法話]

五月。木々が枝を伸ばし、地面からは花が顔をのぞかせていきます。

 

それはまた、雑草が活動する季節でもあります。

 

みなさんは雑草に、どのようなイメージをお持ちでしょう。実は海外と日本とでは、雑草に対する感情が大きく異なるようなのです。

 

日本では、必ずしも100%悪者扱いはされません。厄介(やっかい)ではあるけれども、強い生命力は一目置かれる存在とされてきました。

 

雑草のカタバミなどは、家が代々絶えずに繁栄するようにという意味で、家のシンボルの家紋にさえ採用されています。また、大リーグで活躍する上原浩治投手が信条としているのは「雑草魂」。日本では「不屈、ねばり強い、注目されないところでも地道に努力する」などの肯定的な意味で使われますね。

 

一方海外では、雑草はイコール邪魔者。駆逐(くちく=おいはらうこと)の対象でしかありません。昆虫におけるゴキブリのような存在だそうです。海外で褒(ほ)めことばのつもりで「あなたは雑草のよう」と表現すると、相手には「ゴキブリのよう」と言われたように受け取られかねないのでご注意ください。

 

さて、踏(ふ)まれても踏まれても立ち上がる、というのが雑草のイメージとしてありますが、実際には踏まれた雑草は立ち上がらないそうです。と言うよりも、踏まれることを前提として進化をしてきたのが雑草たちなのです。 ハコベやオオバコは種(たね)がゼリー状になっています。踏まれることにより、動物たちの足に種を付着させることで、自らの遺伝子を広く拡散させているのです。立ち上がるような無駄なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながらどうやって成功しようかという戦略です。

 

彼らにとって踏まれることは、試練や逆境ではなく、ありうる条件にすぎません。踏まれても不屈にけなげに生きているというのではなく、自ら望んで踏まれ、立ち上がらないことが勢力を伸ばす術なのです。倒れたり踏まれたりする姿を「かわいそう」「哀れ」と見るのは私たちの勝手な思い込みです。相手を思いやっているようで、侮辱(ぶじょく)的行為とさえ言えそうです。

 

またそれは、「雑草はがんばっている」「努力している」と相手をちゃんと見ずに賞賛することも同様です。「立ち上がることは(無条件に)いいことなのだ」という価値観も一度疑っておきましょう。

 

阿弥陀さまのすくいは自然(じねん)です。自然とは、ネイチャーの意味ではなく、自(おの)ずから然(しか)らしむる(=ひとりでにそうゆう結果に至らさせる)ということ。それを妨(さまた)げるものがあるとすれば、まず第一に自分自身の勝手なはからいであるとお示しです。

※参考『弱者の戦略』稲垣栄洋(新潮選書)

松本智量(まつもとちりょう)

 本願寺派布教使、東京都八王子市延立寺住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

[今月の法語について]

『正信念仏偈』の中、下記の部分を和訳したもの。

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

阿弥陀如来の本願(=誓願、誓い)を心から信ずるとき、おのずから、ただちに不退(=必ず仏となることが定まる)の地位に達することができるのです。

 

◎ 熊本地震にて被災されましたすべての皆さまに衷心よりお見舞い申し上げます。