2015年12月の法話
[12月の法語] 生活の中で 念仏するのでなく 念仏の上に 生活がいとなまれる 和田 稠 同朋選書16『信の回復』 東本願寺出版部より |
[法話]
私が三十代に入った頃、和田稠(わだしげし 1916~2006 真宗大谷派僧侶)先生のお話をよく聴かせていただいていました。個人的な悩みを自分ではどうすることもできず、先生が九州に来られると聞くと、会場に足を運んでいました。
そんなある日、先生の法話が終わった後、控室にうかがった時のことです。いつもはこちらからお尋ねをすることが多かったのですが、その時は先生から「君は苦しみ悩みがあって、それをなくしたいと思ってここへ来とるんだろう」と問われました。そのとおりだったのですが、あまりにも唐突だったこともあり、私は何も言えずにいました。さらに先生は「あのなあ、苦悩する者を人間というんや」と言われ、私は(だから、その苦悩を取り除くことを求めて、ここに聞きに来てるんだ)と思いながらも、先生の言われようとされていることが飲み込めず困惑し、ずっと沈黙していました。そんな私を見て、先生はダメを押すようにこう言われたのです。「じゃあ、もういっぺん聞くが、君は隣で泣いとる人がおっても、苦しんでいる人がおっても、自分だけは悩みもせず苦しみもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と。
驚きのあまり、私は言葉が出ませんでした。自分が意識して求めていたことが、この身が本当に求めていることとは全く違っていたんだ、という驚き。何かが自分の中でひっくり返ったような、もっと言えば自分そのものがひっくり返されたような不思議な感覚でした。
私たちは、日頃、聴聞(ちょうもん=法話・説教等を聴くこと)をする時に、「ためになるお話を聞きたい」「今日の話は参考になった」というように、仏法を利用するような聞き方をしていることがあります。さらに、念仏することで、迷いをなくしていこう、悩みを解決しようという思いで聞いているのではないでしょうか。
聴聞の原点は、個人的な悩みや苦しみから始まります。むしろ、苦悩を抜きにした聞法は、精神修養や教養としての学びになりやすく、それは理解が増えた分だけ、他人を見下したり、自分の名利(めいり、みょうり=名誉と利益)を満たすものになったりします。そうなると、学ばない方がまだましだということにもなりかねません。
しかし私たちは、個人的な苦悩をなくすことだけでは終えていけない身を抱えています。安田理深(やすだりじん 1900~1982 仏教学者、真宗大谷派僧侶)先生が「私たちはもっともっと悩まねばなりません。人類のさまざまな問題が私たちに圧(あっ)しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできない。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です」とおっしゃったと聞いています。
「生活の中で念仏する」ということは、念仏を手段にして、苦悩をなくそう、たすかろうとしている私たちのすがたとも言えるのではないでしょうか。しかし、それは本当の意味で私たちのすくいにはならない。むしろ、そういう個人的な思いを打ち破っていくような形で、私たちを歩ませるような如来の呼び声〈念仏〉が届く。その念仏のはたらきに出遇(であ)い、歩んでいるすがたを「念仏の上に生活がいとなまれる」と表現されているように思います。
保々眞量(ほぼしんりょう)
1964年生まれ。熊本県在住。熊本教区光行寺候補衆徒。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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◎先月は当寺の報恩講法要へ多数ご参詣下さいまして誠にありがとうございました。今年も残り少なくなりました。歳のせいなのか、あわただしい現代社会のせいなのかわかりませんが、時間の経過を恐ろしいほど速く感じます。2020年開催の東京オリンピックまであと五年だと言っていたのがすでに一年前になろうとしています。次から次へとさまざまな情報が入り、昨日の自分を振り返る間もなく目の前のことをこなして毎日が過ぎていきます。自分自身がなくなるような錯覚に陥るような気さえします。こんな現実だからこそ、そんな自分に気づかせてもらえる「南無阿弥陀佛」のお念仏が大切でありありがたいのだと思うのです。合掌