2015年8月の法話
[8月の法語] 今を生きずに いつを生きる ここを生きずに どこを生きる 大神 信章 『学仏大悲心』より |
[法話]
時間というのは、過去→現在→未来という流れるようなものではなく、過去も未来も包んだ現在(「今ここ」)という時間である。ということを聞いてきましたが、そのことがはっきりと感覚できずにいました。何がそのことをわかりにくくさせているのか。そんな時、たまたま読み返そうと思い手に取った『安田理深(やすだりじん:1900~1982 仏教学者、真宗大谷派僧侶)講義集』の中の一文が目に留まったのです。一度読んでいるはずの、その時気づかなかった文章は、今の時代と社会の真っ只中(まっただなか)に生きている私を言い当てている箇所(かしょ)でした。
時間も空間も資本主義からいうと、空間はマーケット、時間は生産の時間である。つまり人間は、単なる時間ではなく資本主義の時間を生きている。人間が自己を考える時間を許さない。
そのような時間は贅沢であるという。人間を喪(うしな)わざるを得ないのが資本主義である。
私自身、資本主義のこの時代と社会にどっぷり浸(つ)かっているからこそ、最初に言った本当の時間がわからなかったのです。まさに日常に覆(おお)われた五濁悪時の群生海(ごじょくあくじのぐんじょうかい=五つの濁りの悪世界に生きる人々)であります。
もし、この言葉どおりの「今ここ」だけを考え生きるならば、これまでのさまざまな過(あやま)ちを繰り返すのではないでしょうか。現に、過去と未来を見失って経済、経済と推(お)し進めてきた結果、いのちが生きられない大地を作ってしまったのが、あの福島第一原発の事故だったのでしょう。それはただ単に政府や電力会社だけの問題ではなく、資本主義にどっぷり浸かった私たちが、過去、未来、現在のいのちを見失っていたという問題です。悲しいことではありますが、原発の事故によって過去が過ぎ去ったものではなく、そして未来が現在の先にあるものでもなく、過去も未来も現在そのものという、流れるような時間ではないということがようやくわかったように思います。
本願文第十一願
たとい我、仏を得(え)んに、国の中の人天(にんでん)、定聚(じょうじゅ)に住(じゅう)し必ず滅度(めつど)に至らずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
(=もし私が仏になるとき、私の国(浄土)の天人や人々が、仏となる正定聚(しょうじょうじゅ)という存在になり、必ずさとりを得ることができないならば、私は仏のさとりを得ません。) (真宗聖典十七頁)
必至滅度(ひっしめつど=必ず涅槃(ねはん)という煩悩から脱した状態に至る)の願と名付けられたこの願が、今、私たちのあるべき方向を指し示している願であると如実(にょじつ=現実のままであること。実際の通りであること。)に感じています。必至滅度の必至という言葉は、今受け取ることですが、それは現在だけにとどまらず、その現在をとおして、今まで歩んできた過去を支えてきたものを思い返すことによって、未来のいのちを見失わないということ。それは言い換えれば、今、未来のいのちのために何が問われて何をするべきなのか、ということ。それが必至という文言に集約されていると思えてならないのです。過去を切り捨て、未来を見失うと、「今ここ」を生きる私(人間)の積極的な課題も見いだせないでしょう。それは同時に浄土の用(はた)らきを見失った現実ではない穢土(えど=けがれた国土。三界六道の苦しみのある世界。凡夫の住む娑婆(しゃば)。この世。現世。)を生きる姿です。
「念仏は個人を直接的に救うのではなく、時代と社会を救うものである」とずっと聞いてまいりました。いよいよその念仏をもって、過去も未来も包んだ現実の「今ここ」を生きるのだと、この法語は語りかけているように思います。
栗栖寂人
1971年生まれ。兵庫県在住。山陽教区正行寺住職。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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◎本文の著作権は作者本人に属しております。
[註]
「五濁(ごじょく)」
①劫濁(こうじょく)=時代のけがれ、社会悪
②見濁(けんじょく)=汚れた思想、考え方
③煩悩濁(ぼんのうじょく)=むさぼり、怒り、グチ、ねたみ、おごり等々
④衆生濁(しゅうじょうじょく)=人間の心身が濁る
⑤命濁(みょうじょく)=人間の寿命が短くなり、命が大切にされない)