2015年7月の法話
[7月の法語] 私が 私であってよかった といえる あなたになれ 中島 みどり『白蓮華のように』より |
[法話]
私が 私であってよかった といえる あなたになれ (中島みどり)
私が、私でよかったといえる世界は、存在の肯定(こうてい=同意すること。認めること)を表しています。しかし人は、どちらかといえば、こんな私ではダメだと思ってしまうほうが多いのではないでしょうか。それを逆に励(はげ)みにして、頑張ることもありますが、なかには否定的になって、閉じこもってしまい、元気がない人も多く見受けます。
そんなときいつも思います。草木をはじめ、他の生物を見ていると、すべての草木、生物が「これでいい」、「それでいい」と、それぞれの存在の肯定を認めあって納得して生きているようです。にもかかわらず、人間だけが、あえて存在の否定を行っているようです。その起因(きいん=物事の起こる原因となること。もと)するものは、私たちがかかえている煩悩(ぼんのう)ではないでしょうか。三毒(さんどく)の煩悩といわれる貪欲(とんよく=むさぼり)、瞋恚(しんに=いかり)、愚痴(ぐち=おろかさ)が私たちを左右していると申せましょう。なかでも愚痴(無明(むみょう))が、さまざまな場面に出くわしたとき貪欲や瞋恚とともにはたらいていくと考えられます。
その基準といえるものは、自分勝手な都合ではないでしょうか。私自身お恥ずかしいことですが、自分に好都合なものは人でも物でも、自分の手元に引き寄せて、いつまでも大切に保持していたいのが本音であり、半面、自分に不都合なものは、自分の視野(しや)の外に追い出しておきたいというのが正直なところです。
このことをさらに突き詰めると、自分に好都合なものが「貪欲」であり、自分に不都合なものが「瞋恚」にあてはまります。ですから親鸞聖人は、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)のわれら(=どうしようもなく煩悩にとらわれ、自分の力では逃れるすべもないまま罪を犯しつづける私たち)と示されたのでした。
どこまでもあさましい私ですが、そうであればこそ、仏さまは見放すことなく見守られ、「それでいい」と、やさしく包み込み、支えていてくださいます。いつでも、どこでも仏さまと一緒といただけば、こんなに心強いことはありません。
私は毎朝、本堂、お内仏(ないぶつ=寺院で庫裏(くり)に安置した仏像)でおつとめしています。お寺の法座で読経の後、ご門徒のお参り(報恩講・年忌法要)でも、おつとめに続いて、浄土真宗の生活信条、さらにご法話の後、「領解文(りょうげもん)(註)」をみんなで唱和(しょうわ)しています。年月はかかりましたが、子どもたちからお年寄りまで、唱和できるようになりました。ありがたいことです。
何でもないようなことですが、ここに「正信偈(しょうしんげ)」の中の「道俗時衆共同心(世のもろびとよ、みなともに)」の実践があると思うのです。出家者も在家の人も、年寄りも若い人も、共に同じ心で生かされて生きる道があります。
人間に生まれてよかった、いま生きているありがたさ、尊さを心身いっぱいにいただいてこそ、いきいき日暮らしできると申せましょう。それがそのまま「私が 私であってよかったといえる あなた(人)になれ」ということなのではないでしょうか。
それでいいのです。みんな、それでいいのです。互いの存在を肯定するだけでいいのです。
藤実無極(ふじみむごく)
本願寺派布教使、滋賀県彦根市報恩寺住職
(註)「領解文(りょうげもん)」
本願寺第八世蓮如上人が念仏の教えを間違って受けとめることの無いように制定したといわれる。浄土真宗の意義が簡潔にまとめられている。「改悔文(がいけもん)」ともいう。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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