松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2015年6月の法話

[6月の法語]

ものが 縛(しば)るのではありません ものをとらえる心に 縛られるのです

仲野 良俊 

聖典シリーズ4『三誓偈講話』 東本願寺出版部より

[法話]

「どちらが欲しいか悩んでおるなら両方にしなさい。おじいちゃんは、いくらでも買ってあげるよ」。

 

法語をのこしてくれた祖父の仲野良俊(なかのりょうしゅん 1916-1988 浄土真宗僧侶、仏教学者)は、遊びに行くと必ず、孫の私をデパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってくれました。私のお目当ては、当時、女の子の心を離さなかった「リカちゃん」人形です。どれにしようかと悩む私に、いつも笑いながら、何でも与えてくれる「甘い、甘いおじいちゃん」でした。そのおかげで帰りの新幹線では片手にリカちゃんハウス、片手にリカちゃんと、私の両手は母と手がつなげないほど必ずふさがっていました。それが母の帰省のたびに続くので、私の部屋はその時、その時の新作であふれていました。

キャビンアテンダント、ドレス、ミニスカート、テニスウェア。ありとあらゆるリカちゃんに、パン屋さん、花屋さんなどの数々のリカちゃんハウス。デパートの売場よりも揃っている夢のような私の部屋でした。

しかし、私はそれに満足できず、足の踏み場もないほどに溢れているリカちゃんなのに、新しいものを見ると、また欲しがりました。遊びきれないほどの数なのに、「もっともっと」と、おねだりをしました。そのたびに、ニコニコと笑いながら与えてくれる、優しい、優しいおじいちゃん。

 

でも、買ってもらった時は新鮮に感じていたそれらも、日が経つと、どうでもよいものになり、新しい次が欲しくなりました。

 

祖父がお浄土に還(かえ)って、何でも買ってくれる人はもういないのに、欲しいと思う心は今でも変わることのない私の性分です。

 

欲しくて、欲しくて、仕方なかったのに、手にして満足するのは、その場限り。欲にまみれているのに、そのことにさえ気づくことなく、また次へと手を伸ばす。

 与えられても、与えられても、次の瞬間から、また新しいものへ心が奪われてしまい、手にするまで満足できず、そして手にしても、また次を要求する。

 

「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」

 

そうなのです。ものではないのです。その対象物に縛られているのなら、それを手にした途端、解放される心です。しかし、ものをとらえる心に縛られているから、どれだけ手にしても、満足できない。このことを親鸞聖人は「煩悩」という言葉でお示しくださいました。煩悩の所為(しょい=それが原因となっていること。せい)に悩み続けている愚者が、私、凡夫(ぼんぶ=煩悩に束縛されて迷っている人)です。そのあさましさに気づけ気づけと、祖父は私にものを与え続けたのでしょう。

 

無碍光(むげこう)の利益(りやく)より 威徳広大(いとくこうだい)の信をえて 

かならず煩悩のこおり(氷)とけすなわち菩提(ぼだい)のみず(水)となる

 (=阿弥陀如来の光明の働きによって、その広大なる威徳の信心をいただき、それゆえ私たち凡夫の煩悩の氷が溶けて、その水がそのまま悟りの水となるのです。)

(『高僧和讃』真宗聖典四九三頁)

 

そのあさましい自分に気づいたのであれば、手を合わせずにはおれなくなる。南無阿弥陀仏と称(とな)えずにはおれなくなる。とらわれの心だからこそ、阿弥陀様と向かい合う他(ほか)ない。すがる他のない自分。

 

何をねだっても、にこやかにほほ笑んでいた祖父は、「何でも買ってやるから、いつか、そのあさましさに気づけよ。それに気づいたら、手をあわせずにはおれなくなるぞ。阿弥陀様のお計(はか)らいに出会うことができるぞ」と、私にはたらきかけてくれていたのでしょう。

祖父江佳乃(そふえよしの)

 1967年生まれ。愛知県在住。名古屋教区有隣寺住職

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎先月はゴールデンウィークの最中、当寺の「春の法要(永代経)」へ、多数参詣下さいまして、誠にありがとうございました。ご講師の谷口亮昭先生が命の大切さ、尊さをさまざまな話題を例に繰り返しお話し下さいました。今回もまた皆様方のご先祖を偲ぶ思いをご縁にして仏法に出遇い、多くのことに気づかせていただきました。合掌