松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2015年5月の法話

[5月の法語]

わしひとりを めあての 本願の ありがたさ

花岡 大学 『妙好人 清九郎』より

[法話]

今月は児童文学者・花岡大学著『妙好人清九郎』の中に出ている言葉からです。

 

昭和40年代は花岡大学先生ご活躍の全盛期でした。1966(昭和41)年、私がご本山に勤めて間もなくお出会いしたのが花岡先生でした。

その頃、先生は京都女子大学教授であり、仏典童話を『大乗』誌に連載しておられました。風貌(ふうぼう)は指揮者・小澤征爾(おざわせいじ)さんのような白髪交じりの長髪、いかにも作家らしいお方でした。いつも専用のツルツルで薄い原稿用紙に、細字の万年筆で書かれた独特の書体を懐かしく思い出します。

 

清九郎さん(1678〜1750)は、奈良県吉野に生まれ、江戸時代の妙好人(みょうこうにん=行状の立派な念仏者。特に浄土真宗で篤信(とくしん)の信者をいう)として広く知られています。花岡先生も同じ吉野の生まれで、同郷の清九郎さんを見事に描き出されたのが、『妙好人清九郎』です。

そのほか、先生には、鳥取県輩出の妙好人、因幡(いなば)の源左(げんざ 1842-1930)さんについても、同様の著書があります。どちらも妙好人像を彷彿(ほうふつ=ありありと思い浮かぶさま)させる描写で、その情景が脳裏に浮かんできます。浄土真宗のみ教えを聞いて聞いて聞きぬいた妙好人ならではのご法義(ほうぎ=仏法の教義)の味わい、独特の生き方がそこにあります。それは他人事ではなく、つねに「自分自身」、「この私」に照らし合わせて受け止めていることでした。

 

『歎異抄(たんにしょう)』後序にある、

「聖人(親鸞)のつねの仰(おお)せには、『弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい=阿弥陀仏がまだ法蔵比丘という修行者であった時,誓願をたてるため五劫もの長時間にわたって思索をこらしたこと)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』」 (『註釈版聖典』853頁)

(親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀佛が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞ひとりをお救いくださるためであった。思えば、この私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀佛の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話になっておられました。)(『歎異抄-現代語版-』より)

と、ご述懐(じゅっかい=心中のおもいを述べること)されていたとあります。

 

石見(いわみ)の妙好人・有福(ありふく:島根県浜田市下有福町)の善太郎(1782-1856)さんも「この善太郎」と自分の名前を名のって表現しています。そのこころは清九郎さんも、才市(浅原才市(あさはらさいち)1850-1932:妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる)さんも、源左さんも同じです。「私」と言うより、自分の名前で直接表現する場合は、余程の時か、大事な時にだけなのではないでしょうか。

 

親鸞聖人は、本当に大事な時、間違ってはならないことに、「親鸞」とご自身の名前を出しておられます。

 阿弥陀さまのご本願のお目当てが「この私であった」と、いただいたとき、思わず「ありがとうございます」、「かたじけないことでございます」と、お念仏申されたことでしょう。妙好人といわれる人も、すぐさまお念仏を喜ぶ身になったというわけではありません。ご法義を聴聞するようになったのは、他人(ひと)ではなく、自分自身が問題になったからでした。

 

お恥ずかしい、お粗末な生き方しかできない自分が問題になり、その問題解決のため、お寺へ足を運び、聞法を重ね、少しずつ味わいが変わってきたのではないでしょうか。といって、もうこれでよいというのではありません。聞けば聞くほど、ご本願の確かさが身にしみこむのでした。

藤実無極(ふじみむごく)

 本願寺派布教使、滋賀県彦根市報恩寺住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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