2015年4月の法話
[4月の法語] 出会わねばならない ただひとりの人がいる それは私自身 廣瀬 杲 同朋選書8『真宗入門 『歎異抄』のこころ』 東本願寺出版部より |
[法話]
ある時、知り合いの住職からいただいた葉書に「なにも足さない。なにも引かない」という言葉が書いてありました。すっきりしたいい言葉だなと思った後で、何だか自分がはずかしくなるような気持ちも起きました。どこかの妙好人(みょうこうにん=行状の立派な念仏者。特に浄土真宗で篤信の信者をいう)の言葉かと思っていたら、これはウイスキーの宣伝のコピーだと知り二度びっくり。つまり、余分な物を加えたり、薄めたりしていない、素材そのものだけで作っているということなのでしょう。
それに比べて自分を振り返ってみると、ほとんどいつも足したり引いたりしていることに気づかされます。粗末な自分は足し算し、愚かな自分は引き算して自分を見ています。自分に出会うというのはどういうことなのでしょう。
二十代の頃、何年もつきあっていた病気が著(いちじる)しく改善したことがありました。もはや自分の一部のように引き受けていた痛みがなくなった時、とても嬉しかったのですが、その後はそれほど単純には行きませんでした。退院し日常生活が始まると、勝手が違うことがとても多かったのです。健康に生活を送っている人も、苦しんで生きていると感じた、といってもいいのかもしれません。人と比べる苦しみ、自分の居場所を確保するための苦労、つじつまの合わない現実のつじつま合わせに奔走(ほんそう)してしまう様は、新たに見えてきた人間の局面のようでした。病院は、健康であればあまり近づきたくはない場所ですが、静かで清らかな場所でもある、といっては美化し過ぎでしょうか。自分の病気にひたすら向き合い夜が明ける。朝にはカーテンを開けて挨拶し、深夜の苦しみを少しだけ分かち合う。退院する仲間には「もうここに帰ってきたらあかんで」といって互いに泣き合うような光景もありました。
回復し、少しずつ働き始めた頃、私に湧(わ)き上がってきたのは、自分の名前を呼んでほしい、という漠然(ばくぜん)とした、しかしとても強い衝動でした。自分の本当の名前を呼んでほしい。それは、親しく呼びかけてもらってきた「鈴ちゃん」という名ではなく、もっと何か深い呼びかけのように感じました。その時思い出されてきたのは、大谷専修学院でお聞きした竹中智秀先生の言葉でした。
「私たちには三つの名前があるのです。親につけてもらった名前である俗名(ぞくみょう)と、仏弟子の名告(なの)りとしていただいた法名(ほうみょう)、それからもう一つは、南無阿弥陀仏という根本法名です」。
健康であれば生きていける、あるいは生きやすいだろうと思っていた私。思いどおりの体になれば息がつけるだろう、と気が休まることがなかった。健やかな時が本当の自分で、病んでいる時の自分は本来の自分ではないと。しかし、病んでいても健康でも、どちらも自分であった。思いどおりになったからといって、素直に喜べるとは限らない、おさまりの悪い自分に出会いました。
その時、先生が押さえておいてくださった、南無阿弥陀仏という呼びかけがあることがとても嬉しかったです
菅生 鈴
1972年生まれ。山形県在住。山形教区願行寺衆徒。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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[註]:廣瀬 杲(ひろせたかし)1924~2011 大谷大学名誉教授、元学長
◎道を行くとあちらこちらで満開の桜を目にします。この冬は例年よりも気候が不順で寒さを感じる日が大変多いように思われましたが、ようやく春が訪れてきました。寒い冬がいつまでも続くということは決してなく、何事も変化しないものはないのだなあと改めて「諸行無常」の教えを感じます。いよいよ4月です。3月が別れの時期とすれば4月は出遇いの時期と言えます。人に限らずなにか新しいことに出遇えればと思います。合掌