2015年3月の法話
[3月の法語] 死んで往(ゆ)ける道はそのまま生きてゆく道です 東 昇『親鸞に出遇った人びと 5』 |
[法話]
春のお彼岸を迎えるころになると、気温も上昇し、太陽の光も明るく、日が長くなっていることを実感します。寒かった冬から抜け出し、待っていた春が身近にやって来たと感じる3月、一年の総決算である年度末。学校では卒業式が行われ、机を並べた仲間と別れの時期でもあります。人生は別れと出会いの連続だとも言われています。
生まれてこのかた、どれだけ多くの人と出会い、縁あった方がどれだけ先立って往かれたことか。
今月の言葉は、東昇(ひがしのぼる)京大名誉教授(元京都大学ウイルス研究所所長)です。1982(昭和57)年に70歳で往生されました。私も何度か先生の講演を本願寺会館(当時)で聞かせていただきました。白髪の念仏者の印象が強く残っています。そのほか、昭和40、50年代には、京大総長を務められた平沢 興先生、京大の井上知勇先生、京都府立大の西元宗助先生などなど、いずれも親鸞聖人を讃仰され、それぞれ、心底お念仏を喜ばれた方々がご活躍でした。
私たちは、生老病死(しょうろうびょうし)の四苦を抱えながら生きている、いや生かされています。誰一人この四苦から逃(のが)れることはできません。どんどん高齢化が進む日本、年間の出生数と死亡者数からもわかるように、年々、亡くなる人のほうが多く、人口も減少傾向にあります。反面、65歳以上の高齢者(老年人口)の割合は25,1%と、4人に1人は高齢者となりました。すでに30%を超えている県もあります。
つい、死ぬのは他人・・・・と思いがちですが、生者必滅(しょうじゃひつめつ=すべては無常であって、生命あるものは必ず死滅する時がある)の言葉通り、間違いなしに死はおとずれます。その時になって惑わされないように、常に死を見つめながら生きることが大切です。
それはまた、生死を引き離すのではなく、生死一如不二(しょうじいちにょふに=生と死は一つのものであり異なるものではないこと)・・・・つまり、こうゆうところに生死の実相(じっそう=実際の有様、真実のすがた)があります。私たちの一日一日が流れ消えていきます。いつも死を抱(だ)き込んで生きている、それが私どもの人生でもあります。この世において、もし死というものがないとすると、生というものの意味はなく、生のない死もなければ、死のない生もありません。
私自身もそうですが、死にたくないのは事実です。しかし生きている限り、いつかやがては死んで往かなければなりません。そのことがまた生きることの力になり、支(ささ)えになっているのも確かです。いつまでも、いつまでも、どこまでも、どこまでも、走れ、走れとアクセルを踏み続けています。
生死(しょうじ)出(い)ずべき道を求められた宗祖親鸞聖人は、元祖法然聖人に出遇われ、お念仏の教えを依(よ)りどころとされました。その生涯はまさに、いつ死んでも大丈夫、いつまで生きても大丈夫という大きな安心(あんじん=信仰により心を一所にとどめて不動であること)があったのではないでしょうか。
心豊かに生きていける人生が、そこにひろがっていきます。
藤実無極(ふじみむごく)
本願寺派布教使、滋賀県彦根市報恩寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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◎ 寒い日が続きましたが、ようやく日差しも春めいてきました。今月はお彼岸です。春の彼岸は3月21日ころの春分の日をはさんだ7日間。この期間がお彼岸です。ではお彼岸とはどんな日でしょうか。「彼岸」とは読んで字の如く、「彼の岸」、つまり「向こう側の岸」のことです。「向こう側の岸」とは「(西方極楽)浄土、阿弥陀如来の仏国土」のことで、「迷いと苦しみ、煩悩のない世界」です。こちら側は「此岸(しがん)」といい、「迷いの世界」とされています。
「彼岸」という言葉の原語は、昔のインドの言葉、「パーラミター」の漢訳で、意味は「到彼岸(とうひがん)」。すなわち「(此岸から)彼岸に到る」です。「迷いの世界」から「迷いのない世界(浄土)」へと渡ること。仏の国への往生を願うことです。彼岸の期間を仏教週間ということもあります。彼岸は仏法に触れるまたとない機会です。ご先祖を偲び、縁として静かに手を合わせお念仏申しましょう。 合掌