松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2015年2月の法話

[2月の法語]

拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒(さ)めること

高光 大船 『高光大船著作集』第5巻 彌生書房より

[法話]

 

人間はさまざまな人生の局面において、思いどおりにならない現実に直面します。そしてそれが、空(むな)しさとなって人間に襲いかかります。思えば親鸞聖人も、二十年に及ぶ比叡山での修学において自力無効(=自分の力でできることには限界がある)にさいなまれ、空しく過ぎる(空過)現実に苦悩されたのではないでしょうか。「空しさ」は、私たちの人生の奥底に横たわっている現実なのです。

 

私たちは、空しさの解消を考えます。そして満ち足りた世界を手に入れようと努力します。努力は私たちにとって当然の行為です。そのような努力を、親鸞聖人はどのように見ておられるのでしょうか。『教行信証』「信巻」に次のように述べておられます。

 

一切凡小(ぼんしょう=愚かな凡夫)、一切時の中に、貪愛(とんない=強い執着)の心(しん)常によく善心を汚し、瞋憎(しんぞう=怒り)の心(しん)常によく法財を焼く。急作急修(きゅうさきゅうしゅ)して頭燃(ずねん)を灸(はら)うがごとくすれども、すべて「雑毒(ぞうどく)・雑修(ざっしゅ)の善」と名づく。また「虚仮(こけ)・諂偽(てんぎ)の行(=嘘いつわりの行)」と名づく。「真実の業(ごう)」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土(むりょうこうみょうど=阿弥陀仏の極楽浄土)に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。 (真宗聖典228頁)

(すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪(むさぼ)りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて「煩悩を離れずに修めた自力の善」といい、「嘘いつわりの行」といって、「真実の行」とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生まれることを願っても、決して生まれることはできない。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』本願寺出版社より)

 

文中の「すべて」と「必ず不可」という言葉に、親鸞聖人の透徹(とうてつ=澄んでにごりのないこと)した人間眼を窺(うかが)うことができます。私たちはそのような親鸞聖人の人間眼を、正確に学ばなければなりません。親鸞聖人は、人間の努力の「すべて」が「雑毒の善(=煩悩を離れないいつわりの自力の善)」であり、だから満ち足りた世界を得ようと努力しても、それは「必ず不可」といわれているのです。

「雑毒の善」は『安楽集』に、大きな氷の山を溶かそうとして熱湯をかけても、かえってその熱湯が凍って氷の山が以前より高くなる、と譬(たと)えられます。人間の努力は「必ず不可なり」、つまり完成することはない、といわれるのです。親鸞聖人は、このような現実においてこそ「如来の大悲心」が信心として成就(じょうじゅ)することを教えられるのです。

 

さまざまな業因縁(ごういんねん=悪業を作らなければならないような因縁)は、人間に襲いかかります。業因縁は、人間の努力でどうにかなるような、生易しいものではありません。業因縁にがんじがらめなのが、人間の実相(じっそう=実際のありさま、真実のすがた)です。『歎異抄(たんにしょう)』に次のように説かれています。

 

弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばく(=多くの)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(真宗聖典640頁)

(阿弥陀仏が五劫(=極めて長い時間)もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしは多くの重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立って下さった阿弥陀仏の本願の、なんともったいないことであろうか。『歎異抄(現代語版)』本願寺出版社より)

 

このように親鸞聖人は、自分自身を「そくばくの業をもちける身」と自覚されました。そして、「そくばくの業」しかない我が身の実相に目覚めてみれば、今までがんじがらめにされていた業因縁こそ私の一切であり、それはすでに如来によって荘厳(しょうごん=美しくおごそかに飾ること)されていた(世界に)、一切手出ししなくてよい世界に自分があったことを発見することができたのです。「そくばくの業」において、如来が私に「不可だぞ。早くあなたのその思いを捨てよ」と拝んでいた事実に気がつくのです。業因縁に生きる他ない私たちには、「そくばくの業をもちける身」において如来に拝まれている声を聞くことが許されているのです。「かたじけない」とは、因縁に随順(ずいじゅん=従って逆らわないこと)して如来を拝む静かな満足の心境であったのです。

水島見一 

 1950年生まれ。滋賀県在住。大谷大学教授。金沢教区專稱寺衆徒。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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