松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

今月の法話

2014年9月の法話

[9月の法語]

お念仏は 讃嘆(さんだん)であり 懺悔(さんげ)である

 

金子 大榮(かねこ だいえい) 『金子大榮対話集』(弥生書房)より

 

[法話]

教えに遇(あ)うとはどういうことなのか。どのようなときに、その〝はたらき〟を感じるか。そんなことを最近、特に考えるようになりました。その思いと、何年か前に高田教区教化ポスターで見た「人として生まれた悲しみを知らない人は、人として生まれた喜びを知らない」というものとが頭の中で混じり合いながら過ごしているとき、この随想を執筆するお話をいただきました。そしてこの法語の出典である『金子大榮対話集』をあらためて読むことから「人として生まれた悲しみを知ること」という確かめを得ることができたように思います。

 

親鸞聖人の『和讃』に、

 

如来の作願(さがん)をたずぬれば  (阿弥陀如来が願をおこされた理由を尋ねると)

苦悩の有情(うじょう)をすてずして (苦悩する人々を見捨てることなく)

回向を首としたまいて        (仏のあらゆる善業の体である念仏を衆生にふり向けることを第一とされて)

大悲心をば成就せり         (大悲の心を完成されたのです)

(『正像末和讃』真宗聖典503頁)

 

というものがありますが、ここで親鸞聖人は、この対話で語られている「人と生まれた悲しみ」を衆生の「苦悩」として受けとめておられると感じます。仏法を受け入れる心の底には、人が普段気づかないほど奥深いところに悲しむ心があるということでしょうか。

この対話は「悲しみと喜び」をテーマに語られ、「母のこころ」ということから語り始められています。

 

毎日何気なく生活をしながら、ふと、多くのものに支えられ、生かされていることを思います。そのことは昔から教えられてきたことではありますが、身の周り、身の上にいつ何が起きるかわからないところで生きているということも、実はその「悲しい心」が起こったときに気づかされることです。

 

「悲しむこと」「悲しみ」ということについて語られている部分を少し長くなりますが、引用してみます。

時代を悲しみ、人間を悲しむ。その悲しみの心が悲です。(中略)思想的にいえば「罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる(=罪障により殻の中で右往左往して不安と後悔と恐怖の中に閉じこめられていた自分自身が、阿弥陀如来の大いなる慈悲の心にめざめ、その結果、罪障がそのまま念仏する心となる)」ということ、「氷おおきに水おおし(=氷が多ければ水も多いように、煩悩が多ければ、覚りの徳も多い)」ということになる。悲しみおおきに喜びおおしであって、悲しみ消えて喜びだけになるということではない。だから親鸞は「破闇満願(はあんまんがん=煩悩の闇を破って浄土往生の願いを満たす)」とか「転悪成徳(てんなくじょうとく=悪を転じて徳と成す)」とかといいますけれども、氷がとけて水となる、氷おおきに水おおしで、悲しみというものが底の音となって、そして喜びの声がきこえるという二重のものである。(中略)悲しみの音声は人間生活の懺悔(さんげ=過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと)にあるにちがいない。罪深いということです。それは結局悲しみの感情において出てくるのではないかと思います。そして喜びは讃嘆です。お念仏は讃嘆であり、懺悔であるということがあります。

 (『金子大榮対話集』彌生書房)

 

私はこの文章にふれ、私たちが、日常生活において、讃嘆する(=阿弥陀如来の徳をほめたたえ感謝すること)ということは、仏法に遇(あ)わせてくれた「縁」、お念仏が私の口から出たことに感謝(讃嘆)することだと思いました。そして、お念仏申す身となるということは、悲しむ身をとおして教えを聞く、聞法することであります。そして聞法することが同時に、この私はいかにお念仏の教えに背を向けた生き方をしているかを教えられ、懺悔させられるのだと思います。そしてその思いを通して、今生きて在ることが「有り難い」こととして受けとめられるのです。

 

きくというは信心をあらわす御(み)のりなり。

(「聞く」というのは「信心」をお示しになる言葉です)

 (『一念多念文意』真宗聖典534頁)

金子 正美 

1948年生まれ。新潟県在住。 高田教区最賢寺住職。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

[註]金子大榮 1881(明治14) ~ 1976(昭和51)。日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。