松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2014年6月の法話

[6月の法語]

深い悲しみ 苦しみを通してのみ 見えてくる世界がある

平野 恵子(ひらの けいこ)

 『子どもたちよ、ありがとう』(法蔵館)より

 [法話]

今月のことばは、平野恵子(ひらのけいこ)さんの『子どもたちよ、ありがとう』からです。彼女は、飛騨高山にある浄土真宗の寺院の坊守(ぼうもり)(住職の妻)でした。三十九歳の時、正月を迎えるために本堂の荘厳(しょうごん=仏具、法具などを飾ること)などをしている最中に吐血しました。腎臓ガンだったのです。それから二年間の闘病生活の後、1989(平成元)年に往生されました。この本は、その二年間において、子どもたちを通して彼女が「人として育てられる尊さを知っていく」姿を手紙の形式で綴(つづ)られたもので、三人の子どもたちへの遺言でもあります。

今月のことばの直後に、三人の子どもに対して「お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当にありがとう。あなた達のお陰で、母親になることができました。親であることの喜び、親の御恩の深さも知ることができました」と記(しる)しています。このように紹介すると、彼女が優しいお母さんだったと思われるかもしれません。しかし彼女自身、発病以前の子育ての間は不平不満で一杯で、鬼のような顔をして子どもたちを叱りつけてばかりいたんだろうと吐露(とろ=心の中に思っていることを隠さず述べ表すこと)しています。そのような彼女が、ガンによる限られた時間の中で、今の自分に「できることは何だろう」と考えて、子どもたちと向き合う中で、多くのことを教えられ、気づかされていくことを、そのままメッセージとして綴っているのです。その言葉の一部を引用します。

......略......、こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげられること、それは、死の直前まで、「お母さん」でいることです。元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に、動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への、最後の贈り物になるはずです。

 (『子どもたちよ、ありがとう』18頁)

 

この文章には《「母親」でいることです》ではなく、《「お母さん」でいることです》とあります。これは、子どもたちに対して彼女が自ら考える母親像ではないのでしょう。「お母さん」と記しているからです。これは子どもたちの口にのぼる「お母さん」なのです。つまり、子どもたちをして「お母さん」とよばしめる、そこにこそ、彼女自身の「親」の名告(なの)りがあったのでしょう。同時に、それは自らの親に対して口にした「お母さん」のよび声でもあったのです。それは名告りでありよび声でもあったのです。それを通して、先に紹介したように、彼女は自らが「親であることの喜び」を知らされ、自らにとっての「親の御恩の深さ」も知ることができたのでしょう。

 「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう=仏・菩薩の名。尊号)は昔から「親の喚(よ)び声」といわれます。つまり、その名を喚ぶこと(=称名 しょうみょう)を通して、悲しみや苦しみの多い人生の中で、いのちを育(はぐく)む願いやはたらきを知らされ感謝する日暮らしこそが、「人として育てられる尊さ」なのだといただきます。

 

内藤 昭文(ないとう しょうぶん)

 浄土真宗本願寺派司教・大分県法行寺住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

先月は当寺の「春の法要(永代経)」に多数ご参詣下さりましてありがとうございました。いつも思うことですが、今回もまた皆様と『阿弥陀経』を読経し、ご法話を聴聞する時間を共有できました。いろんな意味であわただしい現在のこの日常において、心落ち着く瞬間は本当に得難いものです。ですが、こんな現状だからこそ大切にしたい一時であると感じた次第です。合掌

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