松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2014年5月の法話

[5月の法語]

きのう聞くも 今日またきくも ぜひに来いとの およびごえ

お軽(おかる) 『わかりやすい名言名句―妙好人のことば』より

 [法話]

素直でないと言われ続け、素直になれば聞こえると諭(さと)され、やみくもに素直らしきものになろうと苦労して、気がつけば僧侶になって三十年。

 ある日、隣村のお講(こう=神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体)のお斎(とき=法要その他仏事の参会者に出す食事)で、古い諺(ことわざ)を耳にして衝撃をうけた。「栗の木柱と後生願い(ごしょうねがい=阿弥陀如来に帰依して極楽往生を願うこと)に、まっすぐなもんはない」。そういえば妙好人(みょうこうにん)の特徴は世間でいう優等生でないことである。生きざまの下手なこと、はからい(=自分の力で何とかしようとする心)の強いことが転じて徳となる。長門国(山口県) 六連島(むつれじま)のお軽(1801~1857)もそうであった。

小さい頃より負けん気強く、気性も激しかったので男たちから相手にされなかった。それでも19歳のときに向井幸七を夫に迎え、子どももできて幸せな時期もあったが、やがて強引な性格を幸七は嫌がるようになり、行商に出たまま家に帰らないことが多くなった。そしてお軽は行商先での幸七の浮気を知ることとなる。自分のせいでもあることが認められないお軽は、淋しさと憤(いきどお)りに悶(もだ)え苦しむ。

 そんな彼女を優しく聞法の道へ導いてくれたのが、島で唯一の寺である西教寺の住職現道と坊守の松野であった。苦しみを逃れたい一心のお軽の聞法生活は熾烈(しれつ=勢いがさかんではげしいさま)だった。西教寺だけでなく、下関や北九州にまで自ら舟を漕(こ)ぎ出して聴聞におもむき、夜も昼もない求法(ぐほう)の毎日であったが、何の解決も得られぬまま十数年の歳月が過ぎた。

 「こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ 聞かにゃ落ちるし 聞きゃ苦労」

 お軽は現道の弟・超道から和歌を習い、折々の心境を率直な歌にして自分を見つめた。しかし歌に出るのは愚痴ばかり。

 「今の苦労は 先での楽と 気休め言えど 気はすまぬ」

 おそらく現道の法話を皮肉ったのだろう。だが現道は気休めを言っているのではなかった。

1835年(天保6)、35歳になったお軽は肺炎に罹(かか)り、高熱の中で死を予感した。枕元に見舞いにやって来る現道に、お軽は藁(わら)をもすがる思いで聴聞を重ねた。そしてある日、忽然(こつぜん=にわかに)とお軽の口から一首の歌がつぶやかれた。

 「きいてみなんせ(聴いてみませんか) まことの道を 無理なおしえじゃ ないわいな」

 これはおそらく現道が強情なお軽をたしなめ、はげました文句だろう。しかし今それが思わず知らず自分の歌となって響き出たのである。お軽はこの歌を何度も何度も口ずさみながら泣いた。とうとう回心の機縁が訪れた。今までの自分の歩みの姿がはっきり見える。

「自力はげんで まことはきかで 現世いのりに 身をやつす」

(自力の行に励んでまことの教えは聴かないで、この世の利福を願うことに夢中になる)

 これまで道が見えなかったのは、まったくそのせいに違いなかった。

それがはっきりした上でこう言いきれる自分があった。

 「おのが分別(自分であれこれ考えることは)さっぱりやめて 弥陀(阿弥陀如来)の思案に まかしゃんせ(おまかしなさいませ)」

 それでお軽の苦しみはどこへ行ったのだろうか。苦しみはどこへも行かない。嫉妬(しっと)深い性格はもとのまま、苦労の人生も相変わらずである。

 「わしがこころは 荒木の松よ つやのないのを お目当てよ」

「まこと真実 おやさま(阿弥陀如来)なれば 何の遠慮が あるかいな」

 この年の秋、筑前から飄逸(ひょういつ=人事や世間の事を気にしないで明るくのんきなさま)な詩画で知られる仙涯(せんがい:1750~1837 臨済宗古月派の禅僧)和尚が六連島を訪れ、お軽の歌を目にして随喜(ずいき=心からありがたく思うこと)のあまり一首詠(よ)んで去った。

 「信をえし 人の喜ぶ言の葉は かなにあらはす 経陀羅尼なり」

 これまで自分を調(ととの)えることに浮身をやつし、後生願いになっていなかった私である。

太田浩史(おおたひろし)

1955年生まれ。富山県在住。 高岡教区大福寺住職。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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