松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2014年4月の法話

[4月の法語]

 

一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく

 

宮城 顗(みやぎ しずか) 『生と死』より

 [法話]

 今月のことばは、宮城顗氏のものです。宮城氏は1931(昭和6)年京都市に生まれました。大谷大学卒業後には、大谷専修学院講師や教学研究所所長などを歴任しながら、真宗大谷派本福寺の住職でもありました。氏は、2005(平成17)年の5月に、東本願寺で開かれた「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の真宗本廟お待ち受け大会で「汝(なんじ)、起(た)ちて更に衣服を整うべし」と題した記念講演をされています。その直後から三年の闘病生活に入られ、2008(平成20)年に78歳で往生されました。

 その氏の姿勢は「聞思(もんし)」ということだったそうです。宗祖親鸞聖人の(主著)『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』「総序(そうじょ)」に、

 誠(まこと)なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)、超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ (『註釈版聖典』132頁)

(=阿弥陀如来の本願の何とまことであることか。摂(おさ)め取ってお捨てにならないという真実の仰(おお)せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。)

とある「聞思」です。それは、仏法に自分のいのちの営みを聞き直し、仏法に自らのいのちを問い、思惟(しゆい=考えめぐらすこと。心を集中させること。)することでしょう。2002年法語カレンダーの二月の同氏のことばに「他力の生活は、最後まで努力せずにはおれない生活なのです」というものがあります。言い換えれば、念仏(仏法)に支えられた生き方を求められた生涯だったと思われます。

 お釈迦さまの教えを要略(ようりゃく=必要な所を取って不必要な箇所を省くこと。)した「因縁法頌(いんねんほうじゅ)」と呼ばれるものに、「諸(もろもろ)のものは因縁によって生じ、因縁によって滅す」という言葉があります。私たちは、不思議な因縁によって生まれ、因縁の中で歳を重ね、どこか病みながら、臨終の一念を迎えるのです。この「生・老・病・死」こそが私のいのちの姿なのですが、このことを自覚しているでしょうか。

 有名な『歎異抄(たんにしょう)』に伝えられる親鸞聖人の言葉にも、

 なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁(えん)尽(つ)きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)(浄土――)へはまゐるべきなり(『註釈版聖典』837頁、傍線部筆者)

(=いくらこの世から去ることを名残りおしく思っても、この世の縁が尽きて、どうすることもできないで命終わるときには、かの浄土に行かなければならない。)

とあります。ここに「なごりをしくおもへども」とありますが、皆さんは、最近「なごりおしい」と思えるようなことがありましたか。例えば、遠く都会に住む子や孫が休みに帰省して数日後に戻るといった場合、その別れの際に「なごりおしい」という思いが起こるでしょうか。

 そのような思いはほとんどないのではないでしょうか。それは、その出会いの生活を当たり前だと思っているからであり、いつでも会えると思っているからです。「一期一会(いちごいちえ)」という言葉がありますが、人との出会いに限らず、私たちの毎日のいのちの営みはすべて「一期一会」なのです。毎日の営みは、私たちの計らいを越えた不思議な因縁によるものなのです。それを自覚してこそ、いのちとその出会いを大切にすることができるのです。そのような毎日の生活を送ってこそ「なごりおしい」という気持ちが起こるのでしょう。

 私たちのいのちの営みや出会いが、身勝手な喜怒哀楽のあるものであったとしても、すべて「一期一会」のご縁であり、有り難く尊いものなのです。そこに「なごりおしい」という思いが生じるのでしょう。そのことを今月のことばで気づかせていただきました。

 浄土真宗本願寺派司教・大分県法行寺住職 内藤昭文(ないとうしょうぶん)

 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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