松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2014年3月の法話

[3月の法語]

帰ってゆくべき世界は 今遇う光によって知らされる

  出典:浅井成海『法に遇う 人に遇う 花に遇う』より

 [法話]

 先日、部屋の掃除をしていると、たくさんの手紙が出てきました。中学・高校生の頃から、親と離れて暮らした大学生の頃までの、多くの友だちと交わした手紙です。

 読み返してみると、勉強や部活の悩み、恋愛の悩みなどが書かれていて、とても懐かしく、その頃に戻ったような新鮮な気持ちになりました。その中に、親からもらった何通かの手紙もありました。

 友だちからもらった手紙は何度も繰り返して読んだのか、紙がくたくたになっているのに、親からもらった手紙は、一度読んだきりのぴかぴかの手紙でした。その手紙を開けようとするのですが、なぜか自然と抵抗する自分がいました。

 私の家では、親から手紙をもらうときというのは、特別なときでした。何かのお祝いや記念日などの、私にとって嬉しい特別な手紙と、私にとって都合の悪い特別な手紙です。

 親と離れて暮らした大学生の頃、私は、自分の身勝手な行動などで、親によく心配をかけていました。自由に生きたいからと考えてとる行動は、親には認めてもらえないと思っていましたので、私は親を怒らせていると思っていました。怒られたくない、そこから逃げたい、その思いから、私は、親の話をあまり聞かなくなっていったのだと思います。そのときにもらった特別な手紙です。その頃の思いがよみがえり、その手紙からも逃げたい、そんな気持ちが今もなお、手紙を開くことへの抵抗心を生んでいます。

 一度しか開かれなかった手紙を、もう一度読んでみました。

 あのときは、自分の一方的な思い込みから、怒られている文章だと思い込んでいましたが、今見えるのは、心配はしているが、一生懸命認めてくれようとする親の姿と、それらを一切見ようとせずに、避けている自分の姿でした。都合のいいものだけを取り入れ、我が道を歩み、都合の悪いものは、見ずに避けて通っていた。私は親から逃げていたのではなく自分から逃げていたのです。

 手紙にもう一度ふれることで、あの頃の自分の姿が見えてきました。

 手紙につづられた親からの言葉は、昔も今も同じです。違うのは、あの頃の私と、今の私です。その言葉を、どのように受けとめるのかは、私の問題なのです。

 『正信偈(しょうしんげ)』にはこのようにあります。

 摂取心光常照護  阿弥陀如来の光明は、つねに信心の人を照らし護っていて

已能雖破無明闇  すでに真理を知らない無知の闇は破れさっているが、

貪愛瞋憎之雲霧  むさぼり、怒り、憎しみの心が雲や霧となって

常覆真実信心天  つねに真実を信ずる心を覆(おお)い隠すのです。

 阿弥陀如来の光は、常に私たちを照らし続けてくれています。しかし、我々から生まれる貪欲(とんよく)や欲望から、その光を遮(さえぎ)る雲霧を作り、阿弥陀如来の光を常に覆ってしまっています。

 私たちが生きていて出遇(であ)う光というのは、都合のいい光もあれば、都合の悪い光もあります。理想の光だけが、出遇うべき光とは限りません。都合の悪い光というのは、今の自分にとって都合が悪いだけなのです。悲しみ、怒り、憎しみ......それらも出遇うべき光であり、本当の自分自身へと導いてくださる、常に自分を照らし続けてくれている光なのです。

 今遇う光は、どのような光であっても、自分自身へと導いてくださる、自分自身へと帰らせてくださる光なのです。

折戸沙紀子

1976年生まれ。三重県在住。 三重教区法受寺候補衆徒。

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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◎本文の著作権は作者本人に属しております。

註:浅井成海(あさいじょうかい)(1935-2010)

龍谷大学名誉教授、浄土真宗本願寺派教学研究センター所長

◎30年前に大学で1年間、浅井成海先生の講義を拝聴し、それから25年後に社会人対象の講座にて再度先生に出遇いました。4年前に急逝されたときは大変驚きました。ゆったりした話し方と優しい笑顔が印象に残っています。私にとって、もう少しご高話を聴きたかったと今でも思える先生の一人です。合掌