松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

今月の法話

2014年2月の法話

[2月の法語]

人は法を求めるに止(とど)まって 法に生きることを忘れている

出典:高光 大船(たかみつだいせん)

 編集:福嶌和人/水島見一『高光大船の世界 道ここに在り』より

 [法話]

 今月のことばは、高光大船(たかみつだいせん)氏の言葉です。氏は、1879(明治12)年に金沢市の真宗大谷派専称寺に生まれて、真宗大学(現・大谷大学)に進学し、曽我量深(そがりょうじん)(※)氏に師事しました。その後、自坊に帰り住職として活動し、1951(昭和26)年に72歳で往生されました。その間、藤原鉄乗(ふじわらてつじょう 1879~1975)氏と暁烏敏(あけがらすはや 1877~1954)氏とともに「金沢の三羽烏(さんばがらす=一門またはある方面における3人のすぐれた人)」と呼ばれました。そんな中で「愚禿社」(ぐとくしゃ)を設立し雑誌『氾濫(はんらん)』などを刊行し、また自坊で仏法講習会を定期的に開いて伝道教化に専念されました。

 氏の語録集『道ここに在り』によれば、氏は「生活のほかに信仰はない」とよく言われていたようで、仏法に自己のいのちの姿やあり様を聞き求め、仏法に生きた方のようです。

法に、求める」ではなく、「法を、求める」者はそこに止まってしまいがちです。私たちは、仏法を知的に論理的に理解しようとしがちですが、それは自己中心的なものの見方の中で仏法をとらえようとしているだけです。そのような求め方では、かえって仏法からは離れていくばかりです。そのことを「法を、求めるに止まって」と嘆かれ、「法に、生きることを忘れている」と悲しまれているのでしょう。

 氏には次のような逸話(いつわ=世間に知られていない興味ある話。エピソード。)があるそうです。ある時、両親が仏法を聞くよう(すす)勧めても聞こうとしない若者に「仏法とは何ですか」と問われた時、氏は「仏法とは鉄砲の反対だ」と答えたそうです。その意味は「鉄砲は生きている者を殺すものだが、仏法は死んでいる者を生かすものだ」というのです。そこで「棺桶(かんおけ)の中に入ったものを生かすのが仏法か」と問うた若者に、「あれは遺体であり、死んでいる者とはいわない」といい、さらに「お前のような者を死んでいる者というのだ」と言われたそうです。それで、若者が「俺は生きてる」と手足を動かすと、「それは動いているだけで、生きているのではない」といわれたそうです。この一言が縁となって、その若者は仏法を聴聞(ちょうもん)するようになったというのです。

 私たちは、いのち恵まれた自分を「人間だ」と思っています。では、何をもって「人間」なのでしょう。食事でエネルギーを補充し、手足を動かすことが人間でしょうか。あるいは贅沢(ぜいたく)で楽な生活をしたいと自己中心の欲望を満たそうと努力するのが人間でしょうか。

 私たちは、それぞれの因縁の中で人生を歩んでいますが、自己中心的な狭く浅い価値観の中で生き、他者を傷つけ自分をも傷つけていることすら気づかず生きています。阿弥陀如来の智慧(ちえ)の光明(こうみょう)に出遇(であ)って照らされ、その自己中心的な愚かな姿に気づくことができるのが人間なのでしょう。そして、その「気づけよ、必ず救う」という倦(う)むことない(=いやになってあきることのない)はたらきこそが阿弥陀如来の大慈悲であり、その智慧と慈悲に感謝できてこそ人間なのではないでしょうか。それこそが私の毎日の生活において大切なことであり、阿弥陀如来の智慧と慈悲に生かされている自らに気づく時、「法に、生きること」のできる、「しあわせ」な生活といえるのでしょう。 

内藤昭文(ないとう しょうぶん)

 浄土真宗本願寺派司教・大分県法行寺住職

 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

(※)曽我量深(そがりょうじん)(1875(明治8)~ 1971(昭和46))

日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。

◎  年が明けて早一ヶ月が過ぎました。寒さ厳しい時期ですが少しずつ日も長くなってきたように感じます。

私が大学生の頃、ある教授が「仏の教えに近づけば近づくほどダメな自分、愚かな自分に気づかされるものです。」と言われました。努め、励んで自信をつけ、自分自身を高めてゆくのが一般的なあり方ですが、「仏道を歩む」ということはそれとは正反対なあり方だと教わりました。「愚かな自分」「観たくない嫌な自分」に気づくこと、気づかされることからは誰しも目を背けたいものです。しかし、自分の心が本当の意味で成長し、感謝の中で人生を送るには必要なことではないでしょうか。合掌