松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

今年の法話(2014年)

[今年の法語]

称名(しょうみょう)とは み名(な)を聞くことであります

出典:足利 浄圓『親鸞に出遇った人びと〈3〉』より

 [法話]

 表紙のことばは、足利浄圓(あしかが じょうえん)氏の言葉です。氏は、1878(明治11)年に広島県の本願寺派正満寺に生まれました。後にアメリカに開教使(かいきょうし)として赴任(ふにん)し、キリスト教の布教伝道に多くの文書が活用されていることに衝撃を受けました。帰国後に、浄土真宗において文書伝道を活用するために、出版社の「同朋舎(どうほうしゃ)」を設立します。その後も『同朋』などの編集作業をしながら、真宗学研究所を創立するなど、教学研鑽と布教伝道に力を注ぎ、1960(昭和35)年に82歳で往生されました。

さて、「称名(しょうみょう)」とは私の声となって出てくる「南無阿弥陀仏」のお念仏のことです。その「南無阿弥陀仏」は「名号(みょうごう)」といわれます。その「名(なまえ)」に「号」がついています。「号」は略字で本来は「號」です。つまり「號」は「虎」に関わるもので、虎が大きな声で自分の存在を十方に告げるために吠(ほ)える様を意図(いと)しています。その意味で、「名号」とは名前をもって大きな声で自己存在を告げているのです。つまり「名号」とは、阿弥陀如来が十方衆生(じっぽうしゅじょう)に、つまりこの私に、自らの存在を告げているはたらきなのです。

私たちは、自分の親を「お母さん」「お父さん」とよびます。しかし、どうして私たちはそうよぶようになったのでしょう。それは、私が生まれた時、その生まれたばかりのいのちに向かって「お母さんよ」「お父さんよ」と親が何度も喚(よ)びかけて自分の存在を告げているからでしょう。その喚びかけが「名号」です。その名号は、「ここにいるよ、心配するな」という思いであり、「お母さんとよんでくれ、必ず育てる」という願いなのです。その願いが私に至り届いているからこそ、私の声となって「カァカァ」「トォトォ」と出てくる(称名)のです。

時折、ご門徒さんとお酒を飲みながら話していると、本音を聞くことがあります。それは「南無阿弥陀仏の意味が分からないと、なかなかお念仏の声が出ない」という言い訳です。しかし、私が「お母さん」と声に出してよんだ時、その名の意味や願いが分かっていたでしょうか? そんなことはありません。その名に込められた意味や願いなど知らないまま、親の喚びかけがそのまま私の声となって出ていたのでしょう。

むしろ、「お母さん」とよびながらの生活の中で、その名に込められた願いやはたらきの一つひとつを知らされ、成長してきたのではないでしょうか。そして歳を重ねる度(たび)に、その願いなどを新たに知らされ続けていると思います。そのことを「み名を聞くこと」と言われているのです。換言(かんげん=言いかえること)すれば、その名の意味などを分かって称(とな)えるお念仏ではないのです。称えながら、その「願い」と「はたらき」を知らされていくのです。

浄土真宗においては、仏法を聴聞(ちょうもん=説教などを聴くこと)することが大切です。その「聴聞」とは、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えながら、そのみ名の由縁(ゆえん=因縁)、つまり願いやはたらきを聞かせていただくことです。それが浄土真宗の念仏者の姿なのです。

内藤昭文(ないとうしょうぶん)

 浄土真宗本願寺派司教・大分県法行寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

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◎  あけましておめでとうございます。今年いただいた年賀状に「お念仏の第一の功徳は 自分の煩悩が見えてくることです」(榎本栄一師)というお言葉を引用されていたのが大変印象に残りました。(私自身は自分の煩悩が見えてもすぐに忘れて同じ事を繰り返し続ける毎日なのですが・・・)

「必ずあなたをお救いしますよ」という阿弥陀さまからの呼びかけをまっすぐに受け止めて「南無阿弥陀佛」とお念仏することの大切さに改めて気づかせてもらいました。どうぞことしもよろしくお願いいたします。