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今月の法話

2013年12月の法話

[12月の法語]

念仏者とは一切衆生(しゅじょう)

「御同朋(おんどうぼう)」として見出していく存在

出典:宮城 顗『本願に生きる』

 [法話]

 世の中が混沌(こんとん)としている。自分も混沌としている。いつでもそんな感慨に陥(おちい)る。十代の自分においても、三十代の自分においても、そして思いも及ばなかった歳月を経た六十代の自分においても、世の中が混沌としている。自分が混沌としている。なぜ世の中を混沌とさせ、なぜ自分が何者かわからないのか。そういう状況を解き開く鍵(かぎ)はないのだろうか。実に、抽象的観念的な問い。それでも私においては、こういう問いに悩まされ続けて六十年の月日が過ぎていった。否、むしろ、この問いが自分の人生の全体であったかもしれない。

 

この茫漠(ぼうばく=広くてとりとめのない)とした問いが解き開かれないと、まずは自分が自分の人生に納得できない。人は言うかもしれない。「そんな問いはこの格差社会で精いっぱい生きている生活者の現実から遠く、贅沢な問いだ」と。しかし生まれて老いて死んでいく中で、「なぜ世の中は混沌としているのか。なぜ自分が何者なのか。」と問うことは何の意味もないことなのだろうか。

 物心ついてから私を突き動かしていたこの問いが、私にとっては根本的な問いだということを、あらためて私に向き合わせた出来事が二つある。一つは2001年9月11日にアメリカで起きた「同時多発テロ」といわれる国際貿易センタービルの崩壊であり、その後の富める国アメリカを中心にした報復的な暴力の連鎖であった。その出来事は人間を尊敬(リスペクト)することのない「地獄・餓鬼・畜生」的世界のむき出しであった。

 さらには、2011年3月11日に日本で起こった原子力発電所の過酷な事故をともなった東日本大震災であった。地震と津波で命を奪われた人々への悲しみを通して、日常生活における人間の関係存在性の重さに、向き合うことの意味をあらためて考えさせられた。そして、天災ではなく、人災として立ちはだかる原発事故への怒り、その現実から、原発を推進してきた国と電力会社、さらにはそういう世界をいままで「よし」として支えてきた私たち一人一人の存在の曖昧(あいまい)さと欺瞞(ぎまん=だますこと)、それが六十年間の人生全体を貫く「私とは何者なのか」という問いと重なっていま問われている。

 なぜ世の中が混乱しているのか。なぜ自分が何者かがわからないのか。それは、私が私自身の存在の根っこに張りついて生きてこなかった結果ではなかったか。我が身ひとりを自己として、我が身ひとつを世界として生きてきたことのつけが、暴力的な報復的世界を作り上げ、生物を根絶やしにする核物質を半永久的に存在せしめる原発を是認(ぜにん=その通りだと認めること)してきたのである。そこには、全ての存在は互いに尊敬し、慈(いつく)しみ、分かち合って生きてある「御同朋(おんどうぼう)」的存在だということに思いを馳(は)せることもなく、むしろ他の存在を踏みつけてきた私の存在がある。そういう私の存在の集合体が経済至上主義的社会そのものである。

 そのような「我と我が世界」の現実を徹底的に知らしめるはたらきが仏の呼びかけとしての念仏である。その念仏に目覚め、念仏に生きることこそが「念仏者とは一切衆生を「御同朋」として見出していく存在」ということなのだろう。 

尾畑文正(おばたぶんしょう)

1947年生まれ。三重県在住。 同朋大学教授。三重教区泉稱寺住職。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

註:宮城 顗(みやぎしずか)

 1931年(昭和6年)、京都市生まれ。大谷大学文学部卒業。大谷専修学院講師、

教学研究所所長を歴任。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。 

2008年11月21日逝去。

 

「御同朋(おんどうぼう)」

 親鸞聖人は、出家・在家にかかわらず、同じ阿弥陀如来の信仰の道を歩む行者を「御同行(おんどうぎょう)」と呼び、また、この現実を共に生きる人々を「御同朋」とも呼んで、人々に敬意をもって接しました。それは「すべては阿弥陀如来の慈悲がかけられている同じ仲間である」ということから「同朋」「同行」という言葉に、あえて「御」と冠したのです。ここに親鸞聖人の人間尊重を核とした平等感があります。

  

◎先月は小雨の降る中、報恩講法要へご参詣下さいまして誠にありがとうございました。12月(師走)に入り何かとせわしない時候となりました。「忙しい」の「忙」という漢字は「心を亡くす」とも読めるそうです。年末の慌ただしさの中で「心を亡くす」ことのないように一日一日暮らしてゆきたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたします。合掌