松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2013年8月の法話

[8月の法語]

確かな一足一足が念仏によって与えられてくる

出典:宮戸道雄『仏に遇うということ』

[法話]

関東地方の、とある小学校でのこと。

全校集会のたびごと、校長先生が生徒に向かって大きな声で呼びかける。「自分のいのちは!」――。すると、生徒は声を揃(そろ)えてこう応ずる。「自分で守る!」。「その通り! よくできました」。
校長先生は満面の笑みで、さらに言葉を重ねて言うのだ。「みなさん! いいですか! 自分のいのちなんですよ。自分で守らなければなりませんね! しっかりがんばりましょう!」。

この言葉を、その小学校に勤務する教員から聞き、私は愕然(がくぜん=ひどくおどろくさま)とした。

まことしやかに壇上から呼びかける校長先生。そして、教えられるままに「自分のいのちは、自分で守る」と反復する子どもたちの姿が目に浮かぶ。私は懼(おそ)れた。子どもたちは、この言葉をどのように受けとめているのか。

「自分で自分の身を守れ、と教えることは当たり前のこと、」と人は言う。「それに、」と言葉を続ける。「子どものことだもの、ちゃんとわかって言っているのかどうかは不明だ。今は覚えていてもじきに忘れてしまうだろう。たかが言葉。大したことじゃない。」

しかし、と私は思う。その「言葉」が、人間を構築する。「言葉」によって「人は人となっていく」のだ。「まことの言葉」に出遇(であ)うことなしに、人が人として生きることは成り立たない。

「いのちみな生きらるべし」と言う。そのように、生きるという事実と切り離して、私のからだのどこかに、いのちと呼ばれるものが存在するわけではないのだろう。いのちを我がものと思い込み、力の限り握りしめるとき、いのちは孤立する。孤立したいのちは、生きられない。

浄土(=西方極楽浄土、み仏の国)の住人はなぜここに生まれてきたかを知っている、と聞いた。私はなぜここに生まれてきたかを知らない。それを知っているなら、頼むから私に教えてくれ。なぜ教えてくれないんだ。知りたいのなら浄土の住人になれということか。これは絶対にわかるはずがない。そのときふと思った。知ったならば、私は喜んで生きていけるのか、と。

どこまでいっても自分の思いでしか生きていない私を、確かに生きろと支える言葉がある。それは同時に、悲しいこの人生を、喜んで生きていく力をくれる言葉に違いない。

「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」――。まさに、「いのちの限りこの生を生き続けていく。その、生きることを支える力こそが、念仏なのだ」と、この法語は教えてくれる。しかも、その歩む一足一足の確かさは、私のはからいにはない。念仏にいのちを託(たく)して生きるとき、本当に確かな生き方が、私に恵まれる。生きていくことがちゃんと意味を持ってくる。それがすなわち「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」ということなのだと、私は思う。

今、ここに、このようにして生きているという事実そのままを生きよ、そう私に呼び返してくれるいのちが念仏なのだ、と親鸞聖人は教えてくださる。生きる、それ以外に生きることの意味はない、と、聖人の野太(のぶと)い声が聞こえてくるような気がする。

照井順子(てるい よりこ)
1952年生まれ。青森県在住。奥羽教区光照寺住職。

 

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

註:宮戸道雄 1928年滋賀県に生まれる。真宗大谷派 京都教区 慶照寺住職

 

◎ 今月はお盆です。お盆は正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。インドの言葉の「ウランバナ」の音訳で、「倒懸苦(とうけんく)」、つまり「逆さ吊りの苦しみ」を意味します。『盂蘭盆経』というお経には、わが子ゆえに餓鬼道に落ちて倒懸の苦しみにあえぐ母親を必死に助け出そうとする目蓮尊者(もくれんそんじゃ=十大弟子の1人)がお釈迦様の教えに出遇って救われたという因縁が説かれています。

 浄土真宗では盂蘭盆会(うらぼんえ)のことを歓喜会(かんぎえ=よろこびのつどい)とも申します。またお盆に仏前に供物・果物等を供えることは致しますが、他宗のように特に精霊棚を設けたり、供物や灯ろうを流したりは致しません。浄土真宗では一切の仏事は「聞法」と「報恩」の営みだからです。尊いみ教えに出遇うことのできた身のしあわせを喜び、御先祖に感謝のまことを捧げるのが、真宗門徒のお盆なのです。

(真宗協和会「お盆のしおり」より抜粋)

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